陸軍将校(参謀課の佐官)に嫁した2番目の叔母を頼って行き、土蔵の中へ住まわせて貰うことになりました。昭和20年は不作であちこちで飢饉状態が起きていたらしいが、農家へ疎開するとともに米の飯は食えました。
逃げた先の富山での転校体験は辛いものでした。見世物扱いなのだ。教科書を読むときの早口が笑いの種。富山弁が判からない。言葉が通じないとどうしても除け者になる。それでなくても早生まれで一年分育っていなくて、そして背が低いチビだったから。8月初旬なのに何故夏休みではなかったのか、いまだに疑問なのだが、農繁期に手伝わされるための変則授業だったのではないか。稲刈りの手伝いというのが稲の束を2つ以上背負って運ぶのだが、私はチビで非力だからひとつしか背負えない。女の子にまで馬鹿にされて辛かった。
そして、8月15日。叔母のところは古い寺で、墓地や田も持っていた。その寺の本堂でラジオを聴いた。雑音が激しく、あの竹法螺のような天皇の声が、何を言っているのか判らない。覚えているのは、たまたま堺から来ていた父親が、「ああ、負けたんや。これは負けたんや」と大声で言ったことだ。現役の陸軍参謀の家で、家族の前で、そんなことを言っていいのか怖かった。子供にしては気が回り過ぎるようだが、度重なる疎開・転居で人を恐れるようになっていたのだ。
ただ、富山の田畑の広大さや庄川や飛騨山系の雄大な山々の景色は、町育ちの私たちにとっては心を広くさせるものでした。最初の疎開先である堺の金岡でも、畑に出てはハコベやヨメナを摘んでお浸しにして食べました。野草のフレッシュな味に驚きました。さすがに農作地帯では米もちゃんと配給され、私たちは飢えを知らなかったのですが、史実ではもう配給米の確保も揺らいでいて、この夏から秋にかけては不作で、都会では決定的な配給米不足が起こりつつあったはずです。
さて、戦争が終わった以上、堺へ帰らなくてはならない。殺人的混雑の列車に無理やり乗り、父はデッキの戸口に重いリュックを担いだままぶら下がり、大阪へ向かいます。当時、まだ北陸線は単線で、おまけに機関車の形態や配電コースが、米原以南の東海道本線と違っていて、米原で乗り換える。湖西線ができた今でも、かなり最近まで、塩津で湖西線と北陸本線が列車を繋がなくてはなりませんでした。手間暇の掛かる旅でした。
さて、大阪梅田に夜着くと、空襲に備えた灯火管制がなくなり、煌々と燈がついていて明るく、まずは感激しました。そして、構内にはボロと垢だらけで飢えている浮浪者の大群が寝泊りしていることに驚きました。その大半が子供で、空襲で親も家も失って浮浪児になっているのです。駅で寝泊りし、旅行者に食べ物を乞い、掻っ払いを働いて生きていました。その凄まじい光景を見回して驚いていると、賑やかな笑い声が耳に入り、そっちを見て激しいショックを受けました。。
派手な服装、化粧の女たちが嬌声をキンキラあげながら来る。その女たちが追ってくるのが、生まれて初めて見るアメリカ兵で、しかもアフリカ系だった。大声でスラングを喋り散らし、鮮やかに白い歯を見せて笑っていた。この黒人兵たちが戦争の終わりを、敗戦を、天皇の竹法螺勅語よりもはっきりとリアルに思い知らせてくれたのです。
そして、私たちは父の勤め先の寮に住むことになりました。最初に直面したのは「飢餓」でした。敗戦直後の秋、その次の秋、続けざまに不作で、ことに次の秋は厳しかった。食べられるものは草でも食べました。米の配給といっても米は殆どなく、干し芋や干しトウモロコシ、干し甘藷、米軍のレーションが手に入る程度でした。レーションは紙箱に入っており、A、B、Cの3種類があり、それぞれ朝食、昼食、夕食になっています。朝食はチーズとパンがメイン。昼はどうだったかな。夜は肉も入っていたらしいが貰ったことが無い。チーズというものを知らない日本人が多く、石鹸だと思って身体を洗った人もいたらしい。髭剃りクリームももたらされた。あの金持ちの伯父がアメリカ軍のを手に入れていた。ハミガキと間違えて使ったら、口中泡だらけ、鼻からも泡が出たっけ。
ついには米代わりに茶色のザラメの砂糖が配給され、カルメ焼きにすると満腹感があるといわれて、その小鍋と攪拌用の木の小棒まで買わされた。夜店で売っているけれども中が空っぽだから満腹感なんてない。そこいらのサツマイモ畑で収穫が終わると、一斉に入り茎を抜いた。皮を剥ぐと食べられるのです。当時はイチジクが空き地や庭地に野生同様に生えていて、その実を争奪しました。グミの実も。墓地へ行くと墓碑によく蜂が巣を作っている。煙で燻して蜂を追い払い、蜂の子を食べた。新しいものは生でも旨かった。もう針を持っているのも居て、口を刺されて騒いだっけ。イナゴも食べた。羽根や脚をむしり生食するのです。米を食べたばかりのは、お腹に米が詰まっていて旨かった。いつも本当に腹を減らしていました。それはもうはっきり≪飢え≫でした。
名前だけは「国民学校」から「小学校」に戻ったものの、さてしかし、どう授業していいか先生たちも困り切ったらしい。英彰国民学校は英彰小学校。焼け残った講堂(あの空襲避難所)を幕で仕切って教室にしました。先生や生徒の数は、空襲での焼死や地方への疎開でがたっと減ってました。授業は混乱していました。教科書の墨塗りがありました。戦争や歴史に触れた皇国教育部分を消すのです。形の上での民主主義教育が、前のめりにカリキュラムに介入。まず、生徒大会が催されます。全校生徒を校庭に並べ、さあ討論して学校へ要求を出せ、そんなことをアメちゃんが言ってきたらしいが、討論なんてやり方も知らず、テーマもないのにできやしません。やけくそな誰かが「明日は学校を休みにしよう!」などと言い出し、あっという間に全員賛成。先生達はみんな逃げていて、人の良い中卒の先生が残っており、こんなアホな決議にもにこにこ笑っていた。ただし、直後にその先生は校長と教頭から即呼ばれ散々締め上げられたらしく、一斉休校はなんとなくパアになりました。
クラスでの生徒会もたびたび開かれたけれど、お互いの日常の揚げ足取り発言ばかり。すると様子を見ていた元級長がすっと立ち、「先生のいうことをよく聞き、よく勉強しましょう」なんて、反対のしようもないアホ意見を言い、こりゃもう賛成多数で決まるわな。その程度の民主主義だったのです。言っておけば、この級長は弱い者いじめをやる、とっても嫌な嫌な性格でした。苗字は前田だった。
担任は前任の藤田先生が爆死したのか、転校か、来なくなり、門永先生というのに変わってました。本が好きらしく、漢和辞典の使い方なんかきっちり教えた。クラスで一番金持ちの家の子のとこへ、家庭教師に行っていた。学校の教科書をテキストにしているらしく、難訓な漢字をクラスで初読の時、その子だけがすらっと読めた。これは教育としてフェアじゃないよね。この先生は気分屋で、生徒を気まぐれに怒鳴った。私が席を探してうろうろしてたら、「ちょろちょろするな、鼠!」と怒鳴りつけた。そのくせ、僕が池田亀鑑の『源氏物語講話』を、伯母さんに買って貰って持っていたら、「おい、それ貸してくれ。お前こんなの読んで解るのか?」と、正直とも無礼とも誉め言葉ともつかないことを言われたっけ。この先生、おデコだったため、デコ永と呼ばれていました。
ローマ字の勉強から簡単な英語の授業もやることになった。教科書なんかなかった。戦争中、いちばん排米排英の話をしていた山田って先生が、その係になったのが可笑しかった。また、戦争中、徴兵を避けるために代理教員になっていたあんちゃんが、その係になり、野球もやらなきゃいけないというリーダーにもなっていた。なんか、いい加減な≪戦後≫でした。
そして新制中学ができ、英彰小学校の焼け跡の焼け残ったコンクリート障壁によせかけた木造校舎ができた。私はこの新制中学第一期であり、このあと新制高校の第一期生にもなる。この中学で覚えていることは、アメリカ軍軍政部から女性(日本人)の検査官が来て校長たちがパニクり、授業の引き締めを全教員に厳命、さぼってる生徒が居たりしたら大問題になるからしっかり指導把握せよと通達した。その大変な日に私は体育をずる休みして教室でさぼっていたら、その検査官と校長が入って来た。パニクった私は気分が悪くて体育は休んだ、と言いわけし、検査官はこういう生徒の管理はどうしてるのかと校長に聞き、英語ですらすらメモを取る。校長はパニクって、私もパニクって、後々大変なことになるんじゃないかとビクビクものでしたが、なんにも起こりませんでした。
新制中学になって何というか、窓が大きく開いた気分になったのは、社会科の副教科書として『民主主義』という厚い本が配られたことです。一読して、ほんとに気持ちが明るくなった。いい内容でした。この通りに日本が進んでいれば、まっすぐな国、まっすぐな国民になったでしょう。私と同年輩や先輩の人達も、読んでいる筈です。政治家になった人、財界人になった人、読んだでしょう?この素朴で熱い自由への意志、あなたたちの裡でどう生きてるんですか?それとも、≪日本に合わない≫から捨てたんですか?≪戦後レジームだから≫とかで?
この中学の国語の先生が、私の作文をみんなの前で褒めてくれ、学校の文集に文章を書かせた。確か、ヒューマニズムがテーマだった。これで私は自分には絵のほかに(絵は得意でした)、文章が書けることが判り、現在の職業に繋がっていると思う。しかし、これで直ちにいじめが来た。同級生のみならず、先生の中にも、馬鹿にしたりいびったりするのが現れた。以下、次回に。