正式名称は松竹撮影所です。
桜がみごとでした。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、田中絹代主演、『真昼の円舞曲』に、ワルツのリズムの移動パンで名カメラマン生方敏夫が撮った、在りし日の花盛りの姿が残っている筈です。
その桜がよく映えた所内の建物群は、すべて撮影に使えるさまざまなスタイルで建てられていました。
赤い西洋瓦に白壁の事務所棟は、小鐘楼を備えた教会風。テレビ映画でもよく使われました。
製作部、監督個室、助監督部、撮影部、美術部が入った二階建ての本館は、スレート葺きに白漆喰壁で、木組みを見せた寄せ棟造り。風見鶏のある鐘楼や古雅な玄関、ベランダも備えており、土曜ワイド江戸川乱歩シリーズの「悪の館」としてしばしば登場しました。また、「俳優館」と呼ばれる、南京下見の板張りの建物には、俳優の楽屋や美粧、結髪、床山があり、学校としてもよく使われました。
これらは昭和27年、謎の放火で消失した本館跡の再建ですが、ステージ群も個性的で、蒲田撮影所から移築した蒲田本ステージ。また、グラスステージも陽光を入れるための鋭角の大屋根を、スレートに変えたもののそっくり残っていて、この二棟は現存すれば文化財ものでした。撮影所鳥瞰図は、『人は大切なことも忘れてしまうから。大船撮影所物語』(山田太一ほか編・マガジンハウス社刊)にイラストあり。私が解説しています。
さて、ところが、入社した春のこの桜を見ていないのです。入社式も知らず、恒例だったという木下恵介監督邸の招宴も知りません。補欠採用で6月入社だったのです。
大船の助監督試験の、独自の、実にユニークなシステムの結果です。ちょいとその顛末に触れましょう。
助監督試験は助監督から成る委員会が仕切り、会社も労政課も一切関われなかった。その第一次試験問題は、四百字詰原稿一枚のストーリー提出。題は《某月某日》。
この募集要項の掲示をたまたま見たのが、久しぶりの登校時で、当時全く大学へ行ってなくて演劇活動、それも学生演劇からプロの劇団(制作座→関西芸術座)へ繋がって入れ込んでいたので、ほんとに好運でした。時代(昭和33年)は、文学部出身に会社就職口がなく、新聞社とかNHKが大手で、民放テレビはコネ募集。教職課程を取っていた者が多く、私もそうで中学・高校教師の就職試験も受けていて、和歌山県の試験には通っていたのだが、NHKと朝日新聞には筆記試験で落ちてお先真っ暗。そんな時、この掲示に出会ったのです。すぐに、ストーリーを送りました。パーティーの招待状の日付を、うっかり某月某日というメモのままで印刷に出し配達されてしまう有閑マダムの話でした。
すると、第一次に通ったので、第二次の筆記試験に来い、という通知が来た。貧乏でしたから、夜中に乗ると朝着く唯一の大阪東京間各駅停車、たしか運賃900円ので行きました。大船中学校集合。校庭いっぱい受験者がいた。同期の前田陽一は四千人から選ばれたってよく威張ってましたっけ。出題は一般常識、外国語、選択で理科、または数学。そして、論文と物語。この二つが実に独自なものでした。モノクロームの写真が配られ、被写体は痩せ衰えた長髪の男で、乾からびたパンとも石塊とも見える物を口に当てている。そこから発想して、論文と創作を書くのです。《時代の飢え》といったようなことを、論文は書いた。創作は、そのころシューベルト『冬の旅』全曲をディスカウが歌ったLPが出て、入れ込んで聴いていたからそこから発想した記憶があります。
そして、これも通ったのです。面接試験でまた大船へ。今度は撮影所が会場でした。数人ずつ、口頭試問を受ける。そこで、はっきりと大船の独自性が見えました。試験官は、助監督の委員たちだけでした。《中村登監督》という名札があったけれど、欠席していました。会社側で覚えているのは、所長の大谷隆三さんのみです。つまり、助監督が仕切っていたのです。
その会場へ労政課の人が案内してくれたのですが、「あなた筆記で成績トップでした。絶対受かりますよ」と言われて、びっくりしました。ところが、その後来た通知は補欠。つまり、不合格。ガッカリというより、不思議に思った。口頭試問は落ちるムードはまったくなく、私の創作は委員の一人、野崎正郎氏(のちに監督。『広い天』『次郎物語』)がとても買ってくださり、朗々と読み上げて下さった、なんてエピソードも出たし。
筆記でトップなのに落とすとは、と、労政課がクレームつけたなんて入社後聞いたが、助監督会の決定は会社も動かせない。これが大船の助監督採用システムでした。試験委員の大島渚さんたちとは、のちに助監督仕事を共にしたし、田村孟さんは私の教育係をやってくれたし、なんで面接で落ちたのか聞く機会はあったのに聞かなかったなぁ。入れた嬉しさが強かったからです。桃山学院という家の近くの私立学校で教師をしていましたが、欠員が出来たから入社するかと問い合わせが来たので即辞めて上京しました。胸の検査で落ちた人がいたそうです。
で、即実務実習。給料は、半年間は試用期間ってことで9,500円。半年後12,000円になりましたが、残業が多かった。独自のシステムで給料が10日と25日と分けて支払われ、残業が2のつく日には分けて出されます。だから、仕事していればお金には困りませんでした。
実習は、そのとき撮影中の組に一週間づつ付いた。『恐怖の対決』(岩間鶴夫)サスペンス。生まれて初めてカチンコを打つという、サスペンスがありました。『抵抗する年齢』(田畠恒男)。生まれて初めて宿泊ロケへ行きました。伊豆でした。『その恋待ったなし』(野村芳太郎)。カラー映画初体験。まだモノクロの方が、多かったのですね。生まれて初めてダビング作業を経験。さて、そして小津組、『彼岸花』。小津安二郎初のカラー映画。これには、10日付きました。実に独自な、撮影現場でした。詳しく書いてみましょう。私の大船物語も、そこからが本番かもしれません。