脚本家専業になるまでのことは、「大船撮影所いろいろ」で書きます。

テレビ部へ企画・脚本担当で移っての最初の仕事は、土曜ワイド劇場『声』(松本清張)の脚色でした。この枠はできたばかりで、企画も視聴率も安定せず、また一時間半(当初はそうでした)という長さは、テレビで育った脚本家には書き辛く、映画出身の脚本家には食い足りないという感じで、書き手が安定供給されず、そしてまた松本清張という作家は、その題材の独創性、そして日常リアリティの濃さを買われてテレビ化はされていたが、ミステリーが本質的に持つプロットの強さ、その独自のオリジナリティはテレビでは生かされず、当然ドラマとしていまいちになり、視聴率も取れないとされていたのです。

私の脚色では、プロットのサスペンス味を強く生かし、クライマックスの設定では原作にはない危機的状況を加えました。スタジオドラマにない映画的なそれが、テレビ的日常ドラマに慣れた眼には違和感があったのか、テレビ部長は「失敗作だね」と言いました。この評価はすぐにひっくり返ります。

清張作品の日常リアリティの濃さは私も感じており、ヒロインの友人役に探訪リポーターとして活躍していた泉ピン子さんを推薦しました。みんな、「え?」って感じでしたが、これは当たりで以後女優として大きく伸びたのはご存知の通りです。ただ、ピン子さんは主演の予定だった倍賞千恵子さんとの共演を楽しみに受けたらしく、倍賞さんがスケジュールの都合で出られなくなったのはお気の毒の至りです。

この作品は、視聴率が13%であり、10%前後で横ばいだった土曜ワイドとしては成功でした。清張作品としても、そのプロットの強さが初めて掘り起こされたのかもしれません。また、『声』という一字題名に『松本清張の』と付けたタイトルにしたのは、チーフプロデューサーの井塚英夫さんです。ワイドショー出身の町場感覚の鋭さに私たちはびっくりしましたが、以降、ドラマのタイトルでこのスタイルが流行し、いまや定番ですね。

続いてすぐ、私は必殺シリーズで京都に呼ばれました。『必殺からくり人』第四シリーズの『富嶽百景殺し旅』です。早坂暁さんが創った、山田五十鈴をメインとする殺し屋メンバーの物語です。葛飾北斎が富士の絵に隠した手がかりから、殺す相手を探すという仕組みです。早坂さんが一話しか書けず、メインライター不在で、しかもメンバーたちのスケジュールがきつく、脚本家たちが一つの宿に集められ、ひたすら書く必殺史上有名な「観音ホテル合宿」に放り込まれたのです。

浜松の名刹が京都宿泊用の別館を作ったのですが、場所が岡崎のラブホテル街の真ん中にあったため、ラブホテル化してしまったそうです。そこへ、朝夕二食付きで監督や脚本家を泊め、一度行くと二本は書くノルマを課すことで、必殺シリーズの脚本家たちは大量の脚本を量産しました。アベックも宿泊し、その様子を見ていたこちら側の人間も「こんなところで書けない!」と怒って帰った真面目な人もいたそうですが、祇園まで歩いて飲みに出られたので便利な宿でした。

最初に書かれた作品は『本所堅川』でした。江戸時代の事実談を基に、浮浪児を一ツ目小僧に仕立て、空き屋敷に商人を呼んで怪談仕立てで脅して金品を奪うエピソードを、浮浪児たちが食べるためにやっていたという設定にし、悪御家人に悪用されるストーリーにしました。この作品はスムーズに通り、簡単に完成したとのことです。また、この作品が必殺シリーズのフォトグラフィ美を確立した名カメラマン石原興さんの初監督作品でもありました。

すぐに、オカルト必殺シリーズ『翔べ!必殺うらごろし』が続きます。時代より早過ぎたといわれている、じつにユニークなもので、中村敦夫、市原悦子、和田アキ子などキャストラインも当時異色でした。だが、視聴率はしばしばシングルで、遂に必殺シリーズ打ち切りかどうかを賭け、続くだけ続けようと『必殺仕事人』が始まります。そして、これは84回、足掛け3年に及ぶシリーズとなり、必殺復活を果たすのです。

チーフプロデューサーの山内久司さんに、「変えよう」という強い意志があったと思えます。一度見たら忘れられない強い現実感、殺す、という具象的行動のストレートさ、そのテクニックの奇抜さ。そういう時代劇は空前絶後で、しかしそのアルティザン性の濃さでマニアは深く存在したが、観客層の広さはなかった。そこを変えようとしたのではないか。殺しへの出発の音楽が、闘牛士の登場のようなファンファーレに変わり、そして若さのヴィヴィッドさ、色っぽさを持つキャストが加わる。脚本家や監督の顔ぶれにも変化をもたらしたかもしれません。現代のドラマの人や新人が増えています。

私についていえば、『仕事人』で担当した最初のものは、このシリーズ初の視聴率18%。中村鴈治郎、山田五十鈴両元締めの夫婦喧嘩、決闘沙汰というオイシイ設定の回だったせいもありましたが、必殺再構築に多少の貢献をしたようです。

土曜ワイドは模索の時期、必殺は変革の時期に、それらと出会えたのが脚本家のスタートとして幸運でした。更に社員ライターで脚本料が安かった。確か必殺が6万、土曜ワイドなど2Hが12万。これは助監督が映画の脚本を書くと15万だったのに準じたのでしょう。この事は、数年やってる内に必殺の制作費が万年赤字だったのを消すほどのプラスを松竹にもたらした。必殺シリーズは制作費が安かった。殺し屋の話というので有名スポンサーが付きにくかったと山内さんから聞きました。もちろん高視聴率番組になってからは違ったでしょうが。

さらに私の資質からいうと、空想力はあるが想像力が弱い。アイデアがキャラクター、ストーリーに育ちにくく、プロットになかなか達しない。日常性の強い、アクチュアリティに基づくドラマだと、ことに苦しい。しかし、いわゆるレシ(物語)の虚構性に基づく時代劇とミステリだとプラスに働いたようです。つまり土曜ワイドと必殺に、私は受け止めて貰ったのでしょう。

そして、この二つの路線をやってるうちに、新しい分野にも加わるようになります。そのあたりは次回から。

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