町、そして町歩きが楽しくなったのは、松竹へ就職してからです。それまでの生まれた堺、堺の空襲で逃げた神戸、そこでも機銃掃射や空襲に会って逃れた富山、敗戦で戻った堺、大学卒業までいた大阪、それらはすべて生活空間だった。大学へは奨学金で通っていて、小遣いもその中から捻出、映画は第二封切の二本立て、演劇サークルの月イチの例会、それでギリギリ。そのためにいつも結構な距離を総て歩いて移動したが、それはここでいう町歩きとは違います。。
議論、雑談の場は喫茶店。コーヒー30円。大阪人の常食のキツネうどんと、同じ値段でした。屋台の鮨が一皿三個付け、つまり3個で20円だったかな。焼酎、コップ一杯20円。新世界あたりで串カツが一本6円。そんな状況のところへ、大学4年の時、トリスバーブームが来ます。ハイボール30円。コーヒーと同じ値段でした。カウンターバーでバーテンダーがいた。このバーテンダーの質が高かった。太平洋戦争から戦後にかけて時を得なかった人たちが、やっと表舞台へ出てきたんですね。都会的なムードがあった。常連になると、小冊子『洋酒天国』をくれる。松竹入社後、新橋・銀座・鎌倉・横浜の町歩きの面白さを知ります。給料を貰うようになり、お金もかなり使えるようになった。バーというのが、町歩きの魅力のひとつであるというのが解ってくる。バーテンダーバーというのはそう高くなかった。女性がいませんから。
では、今行っているバーから昔のバーへ、つまり今の町歩きから昔の町歩きへ、《時》と《町》を往きつ戻りつしてみましょう。
銀座。ブリック、トスティ、ロックフィッシュ、三笠会館5517、モーリ(毛利)。
銀座は歩きやすい。店もヴァラエティに富み、老舗も多く残ってます。ただ小粋さが殆ど消えてショウウィンドウが大きくなり、海外ブランドショップが増え、町の表情が取り澄ましたものになった。昔は気安い町でした。
そんな中で並木通りのブリックは、1958年(昭和33年)当時のまま重厚な木組と表扉。入ったすぐ右が、厚いロングカウンターです。
地下と二階は、スナック風。3時に開店ですから、夏など開け放った扉からの微風と街路樹の緑が楽しめ、ハイボールを楽しめます。
スナックも兼ねているから、メニューが豊富。トリハイもあるよ。
トスティ。数寄屋橋通り北端。カウンターの端に通りに面した窓のある、あのクールと同じ造り。小じんまり、と静か。酒、種類豊富。私にとっては、ラムが。マスターは、あのトニーズバーのトニーさんの弟子。
ここで昔の思い出を。クールとトニーズバーはよきバーでした。マスターの古川さん、トニーさん、風格あったですね。
古川さんの定位置はカウンターの端、通りに面した小窓の前。暮れなずむ街を眺めながら、「これがバータイムでございまよ」と、目を細めてにこにこしてらした。食前酒を軽く、または食後酒を軽く。ぐだぐだ尻の長いのはバーの飲み方じゃないというセオリーの慇懃だが、怖い人で、その前へはなかなか案内してもらえなかった。窓の前のコリドー街が堀割だった頃は、船で来る粋な客がいたそうだが、それは私の前の時代です。カウンターは立ち飲み。
トニーズバーは、新橋十仁病院の横の通りの地下。代変りして今もあるかも。ロングカウンターだけのスタンドバー。奥のトニーさんの定位置の前だけ少し椅子があり、馴染みになると座れた。カルヴァドスのコレクションは有名だったが、どうなったか。ここもセオリーに頑固で、女だけでは絶対入れてくれなかった。英国流だそうだが、社会がレディーファーストではないので本末転倒ですけどね。女性同伴はOKで、「ご同業ですか?」と確認しての同業者割引があったっけ。トニーさんのアネクドートでびっくりしたのは、映画俳優高橋貞二の衝突事故に同乗してたって事。飲み仲間だったそうです。
ロックフィッシュ。クールの隣のビルの二階。ここは、大阪キタのお初天神サンボアの流れで、その更に源流の北新地サンボアの創案した、冷やしたソーダで割る氷を入れないハイボールを、北新地サンボア銀座店とほぼ同時に開店提供しました。ツマミというか食べ物のメニューが豊富で、缶詰や既製品をうまくアレンジして、ヴァラエティ多彩です。マスターにはその方面の著作が二冊あり、ハイボールブームと偶然タイミングが合い、いつも混んでいます。
5517。カクテルバーとしての風格、雰囲気は格別です。高い酒を使わないでハイレベルの味を出すのがカクテルの技という、チーフの信条は著書『銀座バーテンダーからの贈り物』通り、そこに記されたカクテルのヴァラエティが楽しめ、しかもお値段はリーズナブルです。チーフの稲田さんは八十二才で、いい仕立てのバーコートが似合う紳士ですが、怖いときは怖い。部下を躾けているときなど。
モーリ(毛利)。外堀通りの南。あるビルの上の方。解りにくくていつも迷います。マスターは銀座ベテランバーテンダー三人組の一人。若いバーテンダーたちが修業に入ってるから、誰に当たるか運次第。マスターの出勤は早くないです。
こう見てくると、銀座は町として腰が据っている。町の中の町です。武蔵野の原生林の名残をとどめている皇居吹上御苑から来る蜜蜂の蜜を採り、使っている町。商品の質は高く、店の質も高い。丁寧で愛想のいい店、とっつきの悪い店、どっちも江戸っ子、都会人のシャイネスからですね。そんなサービスの本質はカウンターバーとカウンター割烹にある。一人にしておいてくれ、そして気を配ってくれてます。京都の宮川町の南端の笹舟というカウンター割烹、息子さんが手伝うようになったので後継者できたね、とご主人に言ったら、「あきまへん、料理しながらお客さんと会話できまへん」と一刀両断。つまり、そういうサービスの商売がカウンター割烹の本質なのでしょう。
さて、銀座から渋谷へ。
コレオス。かつては109の上にあり、コレヒオといった。今は文化村通りからスペイン坂へ向かう通りのビルの上にあります。ここのマスターは山王ホテル出身。マティーニが独特。最初は何作ってんのかと思いますね。ジンをタンブラーでキンキンに冷やし、別に縦長のグラスをキンキンに冷やして注ぐ。強烈なキック。酔います。下手すると足腰を取られる。
渋谷は変わりました。こんなに変わった町はない。道玄坂の上、円山町、神泉あたりが僅かに昔の名残をとどめています。静かさと賑やかさ、灯りの暗さと明るさが魅力的に混じっている町でしたが。
新宿は感じが変わりません。街道の宿場が繁華街になった面白さが依然として残っています。新宿御苑はかつての大名屋敷、西口公園はかつての浄水場であり、その前は幕府火薬製造水車場でした。大きな古い空間が、そのまま残されているからかもしれません。
バー、ドンキホーテ。角筈(つのはず)の交番近く。ここは区役所裏の「いないないばあ」の直系。いないないばあ時代の有名マスター末武さんの子飼いで、のちにスペイン料理店まで出した末武さんの実質コックをしていたマスターだから、食べるものが豊富。この藤田さんの得意な飲み物はジンリッキーです。
こう見てくると、歩きやすいのはやっぱり銀座ですね。高層ビルがないから圧迫感がなく、ビル風が吹かない。この歩きやすさでは、神田もそうです。神保町、小川町、戦前からの建物や町の佇まい。坂があるから歩きも変化に富む。バーも、山の上ホテルのバーはシティホテルのそれとは思えない落ち着ける小さなバーです。
落ち着きたい。町歩き、バー歩きはそんな気分が底にあるのかも知れません。
生まれた堺の町をアメリカ軍の空襲で焼き尽くされ、隣近所も幼な友達も黒焦げになるか離散。逃げた先の神戸、魚崎でやっと落ちついた翌日にまた空襲。富山へ逃げ、敗戦で大阪へ。10才の春から夏に、転校5回。飢えながら、あちこちへ身を寄せて廻った流浪のトラウマが、擬似故郷を無意識に探しているのかも。たまたま仕事がロケーションと、そのハンティング、そしてシナリオハンティングであちこち廻ることが必要で、それが偶然いい町に出会い、あ、イイとこだな、と思う。それが町歩きに私を誘い出している衝動かもしれません。次からは町いろいろを書きます。まず堺から。これは戦争を語ることになりそうです。空襲、機銃掃射のむごさ、田舎への疎開、窮乏と飢餓を。