信天翁通信(あほうどりつうしん)

©2008 - 2015 Yoshida Takeshi



信天翁通信(あほうどりつうしん)

と、いうのを始めます。

阿呆鳥、信天翁。アルバトロス。アホウドリ科アホウドリ。両翼の全長が2メートル。最大級の海鳥ですが、日本の鳥島に200羽(*旧データ)いるだけの国際保護鳥。なぜそんなに少ないのか。

好奇心が強く、無警戒に人に近づくので羽毛を取るのに乱獲されたのです。簡単に殴り殺されて。で、アホウドリ。

信天翁という呼び名は、自分では魚を取れず、他の鳥の落としたのを拾ってきて生きている、つまり天を信じて生きているから、と古代中国の百科事典『五雑俎(ござっそ)』にありますが、これは古代中国人の見損ねで、潜水せずに魚をすくい取るワザの持ち主なのです。

この、好奇心が強く、好きなモノやコトだけをすくい取るというやり方で、いろいろ書いてみるつもりで信天翁(アホウドリ)通信とネーミングしました。

いろいろ発信します。

200タイトル以上脚本を書き、監督作品もあり、そのエピソードいろいろ。

松竹大船撮影所育ちなので、撮影所のエピソードいろいろ。大船はディレクターズシステムで、監督が映画作りの芯であり、私のいたころは小津安二郎、渋谷実、大庭秀雄、中村登、木下恵介、野村芳太郎たちが揃い、大島渚、篠田正浩、吉田喜重、山田洋次たちが撮り始めていました。そんな、いろいろ。

また、必殺シリーズ後期のメインライターだったので、そのエピソードいろいろ。そして、書いたが実現しなかった岸恵子とアラン・ドロンがゲスト予定のパリロケ作品、主水が狸御殿へ行く作品、スペインロケ作品の脚本も陽の目を見せたい。

同じく未撮に終わった、明治の初め、御雇外国人の手を借りず、日本の若者二人が京都の人々と成し遂げた疎水作りのドラマ、も。

そして町歩きいろいろ。

シティボーイではないが場末の町っ子で育ったからか、町歩きが性に合います。

育った泉州、堺。

大船が仕事場で本社が築地だったので、鎌倉、横浜、新橋、銀座。また、仕事のロケ地。

必殺シリーズで滞在した京都。

みんな、今とは全く違う顔の町でした。それぞれに独自の表情を持っていました。今は、どうもみんな似てきました。

盛り場、町々、郊外のたたずまい。そんないろいろ。

では大船撮影所いろいろから始めてみます。

(*編集注: 2015年現在、個体数3,000羽を超え繁殖地も増えているようです)

正式名称は松竹撮影所です。

桜がみごとでした。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、田中絹代主演、『真昼の円舞曲』に、ワルツのリズムの移動パンで名カメラマン生方敏夫が撮った、在りし日の花盛りの姿が残っている筈です。

その桜がよく映えた所内の建物群は、すべて撮影に使えるさまざまなスタイルで建てられていました。

赤い西洋瓦に白壁...

町、そして町歩きが楽しくなったのは、松竹へ就職してからです。それまでの生まれた堺、堺の空襲で逃げた神戸、そこでも機銃掃射や空襲に会って逃れた富山、敗戦で戻った堺、大学卒業までいた大阪、それらはすべて生活空間だった。大学へは奨学金で通っていて、小遣いもその中から捻出、映画は第二封切の二本立て、演劇サークルの月イチの例会、それでギリ...

脚本家専業になるまでのことは、「大船撮影所いろいろ」で書きます。

テレビ部へ企画・脚本担当で移っての最初の仕事は、土曜ワイド劇場『声』(松本清張)の脚色でした。この枠はできたばかりで、企画も視聴率も安定せず、また一時間半(当初はそうでした)という長さは、テレビで育った脚本家には書き辛く、映画出身の脚本家には食い足りないという...

自分は映画ともテレビとも関係ない。観客として関わるだけだ。シナリオなんか書かない。書けない。関係ない。これが普通の感じ方、考え方でしょう。

これが普通の感じ方、考え方でしょう。

また、ちょっと珍しい仕事だな、と思うこともあるでしょう。例えばバーなんかで隣り合って、こっちがシナリオ作家だ、と判ると一瞬話がとぎれる。まじまじ...

入所するとすぐ、その時、クランクインしてた組に一週間ずつ付かされる。その最後が小津組でした。小津さんの第一回カラー作『彼岸花』。余談ですが、大船では監督を「先生」とはけっして言わない。「さん」です。助監督からスタッフの端に至るまでです。ここだけの善き習慣かも。

さて、初日。まずご挨拶。

「何年生まれだい」

これが私...

生まれて10才まで、国民学校(小学校をそう言ったのです)五年生まで育った堺のことを書きます。この話ではバーは出て来ません。子供時代ですから。そしてそもそもバーを見かけない。似合わない町、なのかも知れません。とても古い町、大阪より古い町ですから。宿院という古い盛り場のあたりは、アメリカ軍の大空襲で根こそぎ焼け壊滅したし、映画館など...

テレビ部へ移り、企画と脚本専属になった最初の脚本の仕事は土曜ワイド劇場『声』ですが、助監督時代とまたがっている仕事に『ご存知!女ねずみ小僧』があります。

プランニングでは、メインライター加藤泰、メイン監督工藤栄一だったのですが、すったもんだのクランクインの揚げ句、第二話から突然私が脚本に駆り出された。小川さんは美しい盛り、セ...

映画は演劇と似ています。演劇には戯曲があり、映画にもシナリオが似ているのも似ています。戯曲にもシナリオにも必要なのは、ドラマです。ドラマが無ければ映画も演劇も始まらない。では、ドラマとは何か。対立です。激しい対立が必要であり、矛盾が葛藤し、激しい対立を生み、それが解決することで観客が解放を味わい、心が浄化される。この浄化をカタル...

入所した翌年、小林正樹『人間の條件』三、四部(通称・第二部)に付いています。以後、小林さんが退社する『怪談』までずっと付くことになり、小林組になるわけです。だから、小津安二郎のあとの大きな主題は小林正樹なのですが、小林作品は準備と仕上げ、そして撮影で時間のかかるものばかりだったので、語るとなると分量が多いのです。で、その合間につ...

堺で焼け出され、私たちは神戸の本山の軍需産業社長をしてた義理の伯父邸へ、一時身を寄せます。

六甲山麓、芦屋に続くお邸町、白く明るい土地で空襲で黒く焼け爛れた堺と別天地でした。谷崎潤一郎も住んでいたところです。もうその頃は、確か岡山の方へ戦争を避けて移っていた筈ですが。防空壕から掘りだした僅かな家財を、馬力(ばりき)と呼ぶ馬が...

必殺シリーズが、『必殺仕事人』(1979~81年)で打ち止めになるかどうかは、視聴率に賭けられていました。根強いファンはいるものの、いわゆる腸捻転現象是正以来、つまり発信局朝日放送・全国ネットTBSを、ネット局テレビ朝日に是正以来、関東の視聴率が低くなり、『必殺うらごろし』(1978~79年)という試行で高かった関西の視聴率も...

なによりも大切なのはキャラクターです。優れた、面白いキャラクターを考え、そのドラマを構築する。演劇も文学も大体それで決まります。ただし、キャラクターは単独で独立して生きることはできない。ストーリーとプロットがなければ、キャラクターは生きない。生彩を放ちません。村上春樹を見てみましょう。この作家の創るキャラクターは、じつに独創的...

小津さんと同時期にクランクインして、一週間ずつ付いた作品に触れておきます。

岩間鶴夫、田畠恒男、番匠義彰、野村芳太郎さんたち。

岩間さんは『恐怖の対決』(1958年)というサスペンスで、助監督チーフは古賀三太郎氏でした。何もしないで悠々としていた。組を仕切っていたのはセカンドの篠田正浩氏。カメラマンの小杉正雄氏。この二人...

陸軍将校(参謀課の佐官)に嫁した2番目の叔母を頼って行き、土蔵の中へ住まわせて貰うことになりました。昭和20年は不作であちこちで飢饉状態が起きていたらしいが、農家へ疎開するとともに米の飯は食えました。

逃げた先の富山での転校体験は辛いものでした。見世物扱いなのだ。教科書を読むときの早口が笑いの種。富山弁が判からない。言葉が通...

松本清張という作家は、それまでテレビではあまり活かされて来なかった不遇の人でした。こまやかな日常リアリティとサスペンス、クライムをみごとに調和させた作風が、テレビの日常性の中ではかえって活かしにくかったんですね。土曜ワイド初期、まだ90分の時代、『声』(1978年)がその作風をよく活かしていると考えた私は、松竹側のプロデューサー...