映画は演劇と似ています。演劇には戯曲があり、映画にもシナリオが似ているのも似ています。戯曲にもシナリオにも必要なのは、ドラマです。ドラマが無ければ映画も演劇も始まらない。では、ドラマとは何か。対立です。激しい対立が必要であり、矛盾が葛藤し、激しい対立を生み、それが解決することで観客が解放を味わい、心が浄化される。この浄化をカタルシスと名付けたのが、アリストテレスというギリシアの哲学者です。元々の意味では、カタルシスとは吐いたり下したりの生理作用なのですが、ドラマによるカタルシスは心の静寂浄化を言い、人の心に溜り、内在する苦悩や行き詰まりを解放浄化する心の作用に置き換え、それが演劇によって果たされると言いだしたのが、アリストテレスです。

現代ギリシア人も難しい行き詰まりに直面したら、「ドラマ!」と叫ぶそうです。つまり、現代でも生きている言葉なのです。

行き詰った状況。それを打開するのは、人間です。人間が行動して、状況を越えるしかない。そしてその時、人間も今までの自分を越える行動が必要です。状況がハードであればあるほど、人間の行動もハードでなくてはならない。

アリストテレスがドラマのサンプルとして挙げたのが、ソポクレスの『オイディプス王』です。テーバイの王ラーイオス、妃のイオカステーに子が生まれる。神の予言で、その子が父を殺し、母を姦すると知り、王領牧場の羊飼に捨てさせる。羊飼はその赤ん坊を憐れみ、隣のコリントスの王領牧場の羊飼に渡す。子のいなかったコリントスの王夫妻は、その子を我が子として育てる。それがオイディプース。そして、未来を占うアポロンの神託を取りに行き、父を殺し、母を姦し子を産ませると知り、出奔。旅の途中で、馬車を突っかけてきた傲慢な男と共を殺す。逃げた一人を残して、そしてテーバイへ来る。人面獣体の怪物スピンクスの災いを受けているテーバイを、スピンクスを退治して救い、旅先で死んだ王ラーイオスに代る王に選ばれ、妃イオカステーを妻とする。ところが疫病がまたテーバイを苦しめ、神託が王ラーイオス殺しが罰せられていないと告げる。良き王であろうとするオイディプースは、犯人探しを始める。

ドラマはここから始まります。そして遂に羊飼い、コリントスからオイディプースを迎えに来た使者、イオカステーの証言から、恐ろしい真実が明かされます。イオカステーは自殺し、オイディプースは真実を見抜けなかった我が眼を刺し、テーバイを出奔します。けがれた罪人として、世の見せしめとしてさすらうことを選んでいます。

神話では、オイディプースはテーバイから追放されるのですが、ドラマでは見せしめとなり、さすらうことを自分で選びます。激しく、強い性格の人間の状況と運命を超える激しいドラマになっており、それはオイディプースの勇気ある強い性格から生まれ、観客に感動を、開放感を、心の浄化をもたらしています。

これがアリストテレスの「カタルシス論」であり、観客が浄化によって開放感を得るという考え方です。悲劇やシリアスドラマだけではなく、これは喜劇にも通用する考え方です。

喜劇」として有名なアリストパネスの『リュシストラテ(女の平和)』は、「オイディプス王」の10年ほど後に作られています。アテネ連盟とスパルタ連盟の戦いに、ギリシア全土が巻き込まれる。アテネのリュシストラテという女性が、戦費を納めてあるアクロポリスに女たちを率いて立て篭もり、戦争をやめないとセックスさせない、国庫の金も使わせない、と宣言。スパルタの女たちも加わり、とうとう男たちは屈伏、平和が来るというお芝居でありながら現実に起きている戦いへの抗議、という芯が通っていて、これを書いて上演したアリストパネスに身の危険が及びかねないアクテュアリティーが重なっています。アリストパネスの勇気は大したものです。歌あり、踊りあり、セクシュアルな笑いあり、お芝居としてもスグレモノだったのです。

日本では俳優座が劇場のこけら落としに上演し、好評を博しましたが、東山千栄子のリュシストラテではお上品かつお年で、これはクリスチャン・ジャックが中篇ですが映画にしていて、監督の恋人だったマルチーヌ・キャロルが代表作『浮気なカロリーヌ』に劣らないエロティシズムを発揮しています。

さて、このように優れたドラマは良きカタルシスを生み、観客を人間的に解放するという、アリストテレスのドラマ定義はじつに優れたドラマの本質を捉えていて、映画やテレビドラマも本質としてこれを持っています。ただし、演劇とは表現が異なり、手法も異なります。演技という表現自体の芯は同じですが、表現する《質》《リアリティー》が異なり、シナリオは戯曲とは異なり、表現者であるスタッフ、キャストの《方法》も大きく異なります。それを述べていきましょう。

Previous Post Next Post