入所するとすぐ、その時、クランクインしてた組に一週間ずつ付かされる。その最後が小津組でした。小津さんの第一回カラー作『彼岸花』。余談ですが、大船では監督を「先生」とはけっして言わない。「さん」です。助監督からスタッフの端に至るまでです。ここだけの善き習慣かも。

さて、初日。まずご挨拶。

「何年生まれだい」

これが私への第一声でした。時代は昭和です。

「10年です」

かしこまって答えると、

「俺はもう監督になってたなぁ」

これが第二声。

背が高く白いピケ帽と白シャツ、白ハンカチを欠かさなかった。汗かきでいらした。小津組の撮影はいつも夏。脚本に一年かけるから、そういうサイクルになる。ダンディという言葉がぴったり。男っぽくてさりげなくおしゃれ。そしてバチェラー。モテたでしょう。ユーモラスでシャイネスがあって言葉遣いが細やか。男好きのする男。

朝が早かった。一番下っ端の見習いの私がステージに入っていくと、いつももう小津さんがいた。

セットに胡坐をかき、身を低くしてじっとメインポジションを探っていた。あの有名なロウポジの姿勢ですね。

「お早うございます」と挨拶する。「お早う」と太い声が返ってくる。なんとなく居辛くなってつい表へ出てしまい、そこでスタッフを待つ。そんな毎日でした。

撮影が始まる。ポジションが決まりカメラが据えられる。ベタと呼ばれる一番低い木の三角台か、もっと低い赤塗りの蟹足と呼ばれる金属台。畳に座る日本人をフルショットで撮るのにぴったりな小津ロウポジ。カメラポジションが決まると、助監督がさっと俳優の位置へスタンドインに入る。次に灰皿や湯呑のような小道具の位置を決める。

「灰皿もうチョイ、山、鎌倉。湯呑、チョイ駅、チョイ東京」

セットでの指示は左右や前後が咄嗟には分からない。カメラから見てのそれか、被写体のそれか、必ず一瞬迷う。大船のメインステージは小山を背後に、大船駅に向かって建っているから、「山」「駅」「鎌倉」「東京」という方向指示の小津組語が生まれたのです。洒落てて解りやすい。

東京の下町っ子、カメラマンの厚田雄春さんあたりの機知かも知れません。さて小道具の位置の決まりに、赤鉛筆で印を点ける。ファーストカットの引き(大抵はフルサイズ)のあと、人物への寄り(バスト)のカットバック、今度はどんでん(真逆)に入っての引き。そのときまた小道具の位置が変る。これは青鉛筆で印。だから助監督は全員、赤と青が尻合わせになった色鉛筆を常備していた。

続いて、テスト。数回から数十回。特に指示や要求が入るわけではなく、繰り返す。

率直に言って、「なんで?」と思いました。繰り返す意味が掴めない。NGでなく修正らしいが解らない。

そのセットに入る前に、そのセットのシーンを読み合わせするリハーサルが必ずある。これも小津さん、殆ど指示を出さない。ただ、疑問や質問のセリフで語尾が上がるのを嫌い、厳しく排除したらしい。文学座の俳優中村伸郎の回想に、そうあります。

『彼岸花』の読み合わせでは、浪花千栄子にただ一ヶ所、脚本に「無慈悲な」(ムジヒな)とあったのを、「ムヒドウな」と大阪の日常弁で言ったのを、脚本通りにと指示しただけでした。私には、田中絹代が浪花千栄子のセリフのたびに声を立てて笑うのが気になりました。浪花千栄子は脇役として売り出していた頃で、舞台で叩き上げた芸が光り、この京都の旅館のお内儀さん役もとてもヴィヴィッドで面白かった。田中絹代は主役クラスから脇役へゆっくりスライドしていて、そしてセリフの硬い人だったから、この読み合わせでも精彩を欠いていた。女優はそんな状況に敏感なのもので、笑うことで”格上”を示したのかもしれません。

そんなことをしなくても、田中絹代は大スターであり、この作品でも存在感を示していたのに。(まあ小津さんと田中さんは、監督協会企画『月は上りぬ』の監督を協会長小津さんが田中さんに委嘱し、溝口健二が難色を示したトラブルがあったあとで、微妙な緊張を田中さんが感じていたのかもしれません)

さて、この小津初カラー作品は女優たちが実にキレイです。山本富士子、有馬稲子、久我美子、桑野みゆき。イーストマン・カラーを敢えて避け、地味な発色のアグファを使った厚田カメラマンの選択が生きた。

厚田さんは自称「カメラ番」。ルーペを小津さんが独占し、厚田さんは後ろでライティングを指揮し、止むを得ないときだけ覗かしてもらっていた状況を、ユーモラスにそう言ったのでしょう。

小津さんはいつも自宅から小道具を持ち込むのですが、この映画ではそれがトラック2台分。赤いものが好きで、このメインセットでも、ダンスクの赤いヤカンが印象的でした。このヤカンでは、のち大映で『浮草』を撮ったときに、カメラマン宮川一夫との面白いエピソードを生みますが、それは後ほどです。すべて小津さんの好みで統一され、なんせ、重役ではあってもサラリーマンである登場人物の家に、岸田劉生の絵が掛かっていたりする。扱いも保管も大変だった。畳の縁に至るまで自分で決める。普通の家ではまあ、黒か茶色か地味な模様、でも小津さんの好みはカラフルで料亭のようでした。

10日間しかかからなかったので、ロケには行っていませんが、エキストラの衣装の色、遠景の家の物干しの干し物の色まで指定した、と聞きました。当時のカラーネガの発色はムツカシク、色温度計測計でライトの温度、太陽光の温度といちいち測っていました。ロケは10時から15時までぐらいしかできなかった!

いちばん驚いたのは、セットやロケの店の看板の文字をすべて小津さんが書いたことです。独特の書体ですから、同一人が書いたとすぐ判る。こうなるともう、リアリズムなんてモノじゃない。良き小市民リアリズムの人、なんて、イギリスなどで評価されているらしいけど、そんなものじゃない。すべてが自分の好みで統一されている快さです。ロウポジ、オールフィックス、カメラのレンズは50ミリ。フェイドイン、フェイドアウト、ワイプ、オーヴァーラップなどのオプティカル処理なし。カットバックの俳優の視点、お互い少し左右を見ることで見合ってる感じを出す、いわゆる目線も、殆どレンズを真正面で見る。まるでスチール写真のように。そして編集では、セリフの言いだしまで6コマ、言い終わって10コマで切る。風景のインサートショットはすべて7フィート。このリズムで、小津作品は進んでいく。小津リズム。このリズムの快さを、日常性と勘違いしてやしないか?

本質的にはライトコメディの作家です。エルンスト・ルビッチ(ビリー・ワイルダーの師匠)を好んでいたそうです。初期の作品は都会的な洒落たライトコメディを目指し、日常リアリズムによってペーソスが濃くなり、シリアスドラマの色が濃くなる。太平洋戦争後、シリアス味が濃くなりすぎたのを、脚本を野田高梧と組むことで修正。さらに原節子という良きマドンナ、笠智衆の質朴な男っぽさを得、『晩春』という新しい世界を創る。ヒロインはシリアスだが、脇がコミカルな味を出す。

かなりハイトーンなそれを許されたのは、杉村春子と中村鴈治郎。キャラクターを決して逸脱しないユーモア味。それは、東宝での『小早川家の秋』の森繁久弥、山茶花究などの軽演劇の流れの人々の人工的な軽快さとはまったく異なるもので、小津さんはそっちはあまり買わなかったらしい。

一説によれば、東宝で撮ったとき、森繁、山茶花が小津さんの旅館へ挨拶に行き(宝塚撮影所でしたから)、テスト一発で決める演技をしますから、なんてあまりテストをやらないでくれ、と暗示したらしい。そしてステージ入りのとき、東宝のトップ俳優ってことで森繁氏が取り巻きも賑やかにやって来た。すると、セットで撮影中だった小津さんが、台本を膝に叩きつけて「このステージにうるさいネズミがいる!」と一喝。満場シーンとなってしまったとか、テストで例の森繁節で面白可笑しくやってのけたら、「いいねえ森繁さん、上手いねえ。おい、誰か、小津組の台本あげて」とさらっと小津さんに言われ、上げも下げもつかなくなったとか、そんな噂が大船へ流れてきたものです。

まんざら噂だけじゃなかったらしく、のちに『おったまげ村物語』(堀内真直作品)で大船へ来た森繁氏、ロケ地の車の中で「あの小津さんって人、どういう人?」と、製作助手との雑談の中で不快げに触れた、と言います。

そもそも、小津組のセットは静かなのです。所長などのお偉方も静かに入ってくる。山本富士子の出演初日に、大映社長永田雅一が来たときも、静かに入って静かに見ていたのでした。(ドスの利いた貫禄の人でした。)それが映画人の神経でしょう。

さて、そういう組だから、新入りの私なんかにカチンコなんか打たせてくれない。小道具だって岸田劉生の絵なんか触らせてくれない。スタンドインだってやらせてくれない。慣れた助監督しかできない。見習いの私は、もっぱらセットの壁の取り外しとか、庭木の移動とかに走り回っていました。

今、考えてみるといろいろ分かることがある。十数回に及ぶテストは、俳優を小津リズムに同調させていたのですね。このリズムは小津さんの中にしっかりとあり、例えば編集でのカッティングで、ラッシュのとき、編集の浜村義康さんに、「もう1コマ落とそう」とよく言っていた。俳優の演技のあるカットだけでなく、風景のカットでもそうなのです。

この1コマ2コマという感覚は、編集技術者は判る。良きスクリプターも判る。そして大船の助監督は、シートマンという仕事でのスクリプターをやらされるので、判る感覚がある。実例で言うと、テレビでの映画のオンエアは、それがフィルム作品だと必ず音のずれが生じます。フィルムは光学印画だが、ビデオは電気印画だから、基本的に同調しない。シンクロナイズしない。そのずれはフィルムのフレームで言うとたった1コマなのですが、映画そのものに僅かな音ずれ、例えばロケーションシーンの、セリフのアフレコ(アフターレコーディング)での音ずれがすでに存在していたら、ずれは眼に立つほど大きくなり、俳優の喋る口と音が僅かに合ってないことが一般視聴者にも判るほどになる。これはもう3コマ4コマのずれになっているのです。

こういうコマ数にまで及ぶ細やかさが、小津リズムの根底にある。ライトコメディの味わいの上でも、その細やかさがあり、お住まいが鎌倉になってからは、どうしてもプチブルジョアの世界になってしまう。『早春』はすべて東京だし、どの作品も東京の設定は多いのですが、味そのものが「東京の現代」でなくなってしまう。それはご自分でも感じておられたのではないか。思い切ってコミカルな味を強くした『お早よう』は、子供のおならごっことか、人物も大泉滉、泉京子のチンドン屋夫婦とか、押し売り撃退の名人婆さん高橋とよとか、ほとんどハイコメディなのですが、でも、「現代」ではない感じがどうしてもある。恐らく、「次」を模索しておられたと思う。

「連句歌仙のような映画を」と言われたこともあるらしい。長短三十六句を連ねて虚構世界を作る歌仙は、日常性とハイさがともに存在し、そしていい句ばかりではなく、遣句(やりく)というルーティーンな句を作る巡り合わせになる時もある。人生そのものです。果たして、小津さんの「連句」映画はどんなものになったのだろうかと思います。

まだ尽きませんが、小津さんについてはこれまでとし、大船話も今回は小津さんで終わっておきましょう。

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