松本清張という作家は、それまでテレビではあまり活かされて来なかった不遇の人でした。こまやかな日常リアリティとサスペンス、クライムをみごとに調和させた作風が、テレビの日常性の中ではかえって活かしにくかったんですね。土曜ワイド初期、まだ90分の時代、『声』(1978年)がその作風をよく活かしていると考えた私は、松竹側のプロデューサーである佐々木孟さんに提出しました。佐々木さんは巨匠渋谷実のプロデューサーでもあり、中村登とも『紀の川』(1966年)という大ヒットを放っていた、既に有名な人物でした。倍賞千恵子さんなら企画的にOKということで、その親友に泉ピン子さんを私が推薦しました。ピン子さんも、倍賞さんとならと乗ってくれたのですが、その倍賞さんが土壇場で降りた。まだ土曜ワイドと私が創ったドラマトゥルギーを信用し切れないとこがあったようです。松竹のテレビ部長の山内静夫氏など、「失敗作だね」と面と向かって言ってたからね。

ところが、これが視聴率13%。10%を切っていたところだったので、みんなニコニコ。続いて、同じく清張で、『顔』(1978年)。今度は倍賞さん、出てくれたのですが、清張さんがうっかり原作を二重売りしちゃって、TBSの日曜ドラマで同じものが出ちゃった。すまん、すまん、と謝っておられました。でも向こうは1時間ドラマだったかな。ホームドラマ路線の日曜劇場だったので、カラーは全く違うものになりました。

さあそれから松本清張が当りだして、松竹では続けて作り出し、『紐』(1979年)、『種族同盟』(1979年)とことごくヒット。これはテレビドラマ向きではないと、ANBのプロデューサーが反対したのを押し切った『書道教授』(1982年)。ノゾキもやれる密会の宿ではないかという、疑惑設定が絶対受けるという私の判断が当たりました。視聴率20%。試写のとき、まだ局プロは失敗作だ、と投げていた。いまやテレビ化が繰り返されています。私の最高視聴率29.7%を出した『山峡の章』(1981年)は、これはテレビ向きの題材だからイケるという、プロデューサーの判断でした。新婚の夫が新妻の妹と東北の山深い温泉で心中する、というショッキングな謎の事件が汚職の責任を擦り付ける為の殺人であり、心中なんてあり得ないと探る妻が、結婚前からの夫の友人であるジャーナリストの助けで真相に達する。ラストは玉川堤の謎めいた療養所へ潜入、殺されかけるのをジャーナリストに助けられる、というプロット。プロット組むのにけっこう苦労しました。話が複雑で。

そして松竹社員だった私は、京都へも出張執筆させられる。必殺シリーズへの参加です。最初は中村主水ではなく、山田五十鈴、沖雅也の『必殺からくり人・富嶽百景殺し旅』(1978年)。広重描く富嶽百景の一つ一つに、罪と真犯人が暗示されている。私の担当は『本所竪川』。必殺シリーズ独自の視覚世界を創造した名カメラマン、石原興の第一回監督作品でした。社員だから脚本料安かった!確か、1hもの6万、2hで12万。

『からくり人』の直後、またすぐ大船に呼ばれ、ライオネル・ホワイトの『真実の問題』を手掛けることになりました。この企画は私が提出したものでした。秋吉久美子を起用することが決まり、双子の兄弟とそれにそっくりの犯人という難しいキャスティングで、松竹の佐々木プロデューサーには苦労をかけましたが、高視聴率を獲得しました。放映タイトルは『笑う真犯人 危険な妹』(1981年)でした。

そのうち、『必殺』が世界を変えようと動き始める。異色作『必殺うら殺し』。オカルトの世界です。私は三本書いたかな。これが視聴率が10%切るか切らないかという、当時14~15%が普通だった中では極めて低視聴率。よし原点へ戻ろう、そしてどれだけ続くかやってみよう、と『新・必殺仕事人』が始まります。私も加わり、私の回で、題材の面白さ山田五十鈴、雁治郎対決というキャスティングの凄さから、18%という数字が出、『必殺』は復活を果たします。そして世界が変わる。山内久司プロデューサーの狙いでした。その黄金時代が再来します。

受験生とはいっても、その時代では≪素読吟味≫(そどくぎんみ)という、直参の子弟のための一年一度の学問テストが正式のものですが、これでは受験生という感じが出ない。殺しの術の道具もない。そこで医者の家系にし、長崎留学、シーボルト塾に入るため勉強中ということにした。殺しの道具はライデン瓶を使っての感電ショック。殺しには余り成功せず、探索とアシスタント役を千代と組んでやる、そういう設定にした。演じたひかる一平は、NHKの歌謡番組で見つけた。紺ガスリと袴という書生姿が似合いそうだった。事実、似合いましたね。彼の登場には、スタッフや撮影所での批判がかなりあり、必殺ファンからも批判が出た。ガキなんか出すな!

驚いたのは、それで判ったのですが、田辺聖子と白州正子が批判メンバー、つまり必殺ファンだったということです。これにはみんな喜びましたねえ。天野祐吉さんたちの『広告批評』という雑誌から『必殺』製作側対ファン側という座談会が申し込まれ、ABCプロデューサーの山内久司さんと、私が出席しました。可笑しかったのは、ファンの側は、もっとハードに、もっと悪を大きく、という声が大きく、我々作る側は、今の『必殺』は、かなり市民サイドになってしまっているからリアリティを大切に、という主張でした。

大体、小市民にとっての悪はお役所官僚か、奉行所関係、ヤクザとか暴力団になりがちです。そして殺せばおしまい。ドラマとしては日常ルーティン、悪も深く大きくはない。生活・人間を深く描くことが大切になるが、時代劇で一時間ものというと、それも限界がある。この限界がはっきり見えたのが、初めての映画として『必殺』を作ることになった時でした。

「これは殺し屋同士の殺し合い、で行くしかない。」そう山内久司プロデューサーが言ったのです。びっくりしました。そんな単純なメイン・プロットで二時間持つか?だが、執筆に掛かると、いつもやっている一時間の話では確かに持たないが、弱者の恨みを晴らすという部分は『必殺』の芯だからそこは外せない。共作者の野上龍雄さんによる、若い女郎の愛猫が女郎の元締め夫婦のイジメがもとで殺される、というタネで、仕事は前進。その殺しをきっかけに江戸の闇の世界を仕切ろうとする集団が現れて介入、次々に江戸の仕事人が消される、そんなストーリーになり、ラストは芝居小屋での血戦、殺し合い、それでおしまい。最後の脱出は藤田さんの提案で潜水艦に。なんかゴッタ煮のようなドラマになりましたが、キャスティングの面白さと話の運びの奇抜さで見ていて面白く、大ヒットしたのです。会社から私に祝電が来たっけ。

そして、テレビの方も節目節目に二時間スペシャルを入れ、新しいシリーズに入っていくという形が出来ます。そのきっかけになったのが、最初の二時間スペシャル『仕事人アヘン戦争へ行く』(1983年)です。アヘン戦争で親兄弟を殺され、旅芸人の一座へ入って日本へ逃れてきたアグネス・チャン。盲目の彼女を拉致、口を塞ごうとする清国の密使、香港の見世物師、鰐淵晴子(入船屋お北)。アグネスを助けて主水たちと組む、伝馬町大牢の隠し囚人、表向きは牢死した筈の平賀源内に宮口精二。源内を送って来る町奉行、遠山の金さん=栗塚旭。そして、長崎へ気球でやってきたセントヘレナ脱島のナポレオン=クロード・チアリ、その気球で香港へ飛び、アグネスを故郷へ送り、親兄弟の仇討ちをしてやる仕事人たち。仕事人初の海外ロケでした。

こうして、必殺シリーズはまた新しい出発をします。『必殺仕事人Ⅴ』(1983-84年)で、新メンバーに村上弘明、京本政樹が加わります。

新シリーズにとって難しいのは、二時間スペシャルの題材です。山内久司氏の指摘は的確で、そもそも殺しがひっそり行われるから大きな話にならない。二時間の映画とかスペシャルにするには、大きな悪のからみが必要なのです。この悪の設定が普通ではつまらない。いろいろ試しましたが、どうしても史実絡みになってしまう(後で群述します)。思い切って西部劇にからめるのもやった。『主水、第七騎兵隊と闘う』(1985年)。カスター将軍を殺したのは主水たちだったというサプライズ設定。正月にちょいと散歩に出掛けた主水が、おりく(山田五十鈴)に引っぱられ、天保水滸伝の利根川での血闘に巻き込まれ、その最中にワープして西部へ。そしてカスター将軍率いる第七騎兵隊とシッティングブル率いるネイティヴアメリカンの戦いに巻き込まれ、騎兵隊に親を殺された娘(水前寺清子)の頼みでカスターを殺す、というお話なのですが、シッティングブルの孫娘から、「カスターを殺したのは私の祖父だ」と厳重な抗議が来て、訪日中だったその人にプロデューサーが会いに行く、という事態が起きます。黒澤明がストーリーの飛躍ぶりと奇抜さに感心した、という話も、仲代達也から。それらは次に。

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