信天翁通信(あほうどりつうしん)X 町歩きいろいろ(その3)

堺で焼け出され、私たちは神戸の本山の軍需産業社長をしてた義理の伯父邸へ、一時身を寄せます。 六甲山麓、芦屋に続くお邸町、白く明るい土地で空襲で黒く焼け爛れた堺と別天地でした。谷崎潤一郎も住んでいたところです。もうその頃は、確か岡山の方へ戦争を避けて移っていた筈ですが。防空壕から掘りだした僅かな家財を、馬力(ばりき)と呼ぶ馬が曳く荷車に積み、私たちも乗り神戸へ向かった。その途中見た大阪の荒涼とした焼跡は、いまだに眼に残っています。御堂筋の南端の難波の高島屋の前から、北端の梅田の阪急百貨店が見えた記憶があります。小雨の降る御堂筋に人影はなく、馬が一匹、腹の傷から垂れた腸を引きずって、ぽくぽく歩いていました。まったく同じ光景を野坂昭如が小説で描いています。偶然同じ時、同じ馬を見たのか、それとも、戦時下の庶民の輸送手段は馬力しかなく、町々の馬力屋には必ず馬がいたからか。 車なんかガソリン払底で走っておらず、乗合バスも木炭車だった。その程度の国力で、この国と軍はこの戦争を始め、国土と非戦闘員の国民を黒焦げにし、若い人の命を特攻などという消耗戦術で散らさせ、愚かしい終りかたでしか戦争を終わらせられなかった。国民はこのあと凄まじい飢えで草まで食い、避難所もボランティアも免税も補償もない時代を生きた。私も、ちゃんと家に住み、正規に学校に通えるようになったのは三年後、新制中学二年になってからです。本山での生活は、そんな中でのきわめて僅かな安穏さでした。住居も快適、食うものもあった。本山国民学校というお坊ちゃん学校へも僅かだが通い、海浜でも遊べた。しかし、戦争は容赦なく襲って来ました。 京都もそうですが、地質が京阪神独特の花崗岩質で、地面が白いのです。ことにこの本山のお邸町は真白でした。家並みも立派で、転向した本山国民学校もコンクリート造り。堺や大阪の空襲などが別世界のようで、その話をしてやると教室のみんながびっくりする、そんな長閑さでした。海へも近く、歩いて浜へ出て水遊びができました。でもあとで知りましたが、神戸市自体はもう何度も空襲を受けていた。本山でも、アメリカ戦闘機の機銃掃射を受けました。下校する子供の列めがけて急降下してきて討つのです。伯父の邸でも、庭に居た私と祖母、縁にいた伯父、たった3人の「一般市民」、それも女子供に向けて機銃掃射するのです。戦争じゃないですね。虐殺です。アメリカ兵が笑っているのを見た子供もいました。野牛と原住民を殺戮しながらアメリカ西海岸へ達した、ワスプのインディアン狩りの太平洋版です。 さていつまでも伯父の邸にも居られないから、すぐ近くの魚崎に家を見つけ転居。学校も魚崎国民学校(小学校)に転入。ここもコンクリート造りの立派な校舎で、せんだっての阪神大震災のときに避難所として新聞に載っていた。懐かしかった。だが、一度も登校していません。転入手続きしたその夜にまた空襲があってまた家が焼けたのです。 木造の小住宅ばかりでしたから、たちまち家が燃え始め、水をかける父に母が、早く逃げよう、今夜は大人数なのだから、と叫ぶ。そう、父母、祖父母、まだオンブの幼弟を入れて子供3人、3世代、計7人。確かに大人数でした。頭上から焼夷弾が落ち続け、四方八方で火の手が上がる中を山の手の方へ逃げました。焼夷カードと呼んでいた銀色の紙片が振りそそぎ、地上近くで発火するのを手で払いながら。 お邸町へ入った途端、国民服に鉄兜の男たちが大手を拡げて立ち塞がり、怒鳴りつけてきました。『隣組』という町内会組織の役員らしい。お前らは消火活動をしないで、敢闘しないで逃げて来たな、戻れ、戻って敢闘しろ。父も母も敢闘したけど、家が燃えてしまったのだ、と言うのですが聞き入れない。だが、被災した人々が続々逃げて来て、遂に数の力で空疎な愛国者たちを押しのけた。私たちは暗い方へ暗い方へと逃げます。頭上からは焼夷弾の落下するざーっ、ざーっ、という轟音が響き、落下音のたびに火勢が増して赤い色と煙が渦巻く。焼夷カードが無数に舞い落ち、次々に発火する。町内会単位の大きな防空壕の扉を叩いては「子供と年寄りを連れています。入れてください」と戸を叩いても、満員だ、という押し殺したような声か、沈黙が返って来るだけ。 やっと学校に着き、校庭の大防空壕の戸を叩くが、同じ対応です。次の瞬間、照明弾の青い光が辺りを照らし出し、続いてモロトフのパン籠が弾けざーっという焼夷弾の落下音が頭上に迫り、思わず目の前のプールに水が張ってあったのへ飛び込もうとしたができず、その場へ突っ伏す。そのプールへ焼夷弾が塊まって落下、炎と水しぶきと煙が、轟音と共に立ち昇りました。間一髪で、助かったのです。 コンクリート造りの校舎へ逃げ込む。そこの図書室でアルス児童文庫を見つけ、歴史物語を読みふけったのを覚えている。人類の愚行の最大のもの、戦争と空襲の中で読むのはアイロニカルですね。 翌日、家へ帰って私たち一家の運の悪さを知る。空襲の被害は町全体でなく近所は殆ど焼け残っていたが、我が家は全焼。そして母が正しかったことも知ります。父が消火につとめていた玄関前に、焼夷弾が直撃して突き刺さっていた。父が居たら即死か黒焦げだったでしょう。 近所の家の応接間へ夜だけ寝させて貰い、昼は焼け跡から家財道具を掘り出す。2回空襲に遭ったからもうロクなものも残っていません。紙不足でタブロイドになった朝刊だけの新聞で、広島・長崎への《新型爆弾》投下と惨害、そしてソ連の中立条約を一方的に破棄しての不法侵攻を知ります。原爆のことは訳が判からなかったが、ソ連の参戦は子供ごころにも、絶望的なものを感じました。 やがて、富山県射水郡越中大門浅井村の、二番目の叔母の嫁ぎ先のお寺へ、再度の避難です。そこで敗戦を迎えるのですが、それは、次に。 このように、神戸という町との最初の出会いは、二度めの戦災との出会いでした。 でも、この町の魅力と、のちまた出会うことになります。必殺シリーズの執筆で京都に滞在中、あちこち足をのばした中に、神戸も入ってたからです。北は六甲を背負い、南は海に展いたここは、港町の魅力に溢れていました。阪神大震災の神戸。北野の異人館通り、三宮、トアロード。それらは京都めぐり、滋賀めぐり、大和めぐりとつなげて、のちほど。

December 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)XI 仕事にまつわるいろいろ(その3)

必殺シリーズが、『必殺仕事人』(1979~81年)で打ち止めになるかどうかは、視聴率に賭けられていました。根強いファンはいるものの、いわゆる腸捻転現象是正以来、つまり発信局朝日放送・全国ネットTBSを、ネット局テレビ朝日に是正以来、関東の視聴率が低くなり、『必殺うらごろし』(1978~79年)という試行で高かった関西の視聴率も低下、どっちも10%を僅かに越えるだけの危険水域に入ったのです。(まあ現在のテレビ全体の視聴率低下から見れば、10%に達していれば平均レベルなのですが、当時は15%がめどでしたから) それが『新・必殺仕事人』(1981~82年)で大きく回復。三田村邦彦に続くニューキャラクターとして、中条きよしが、そして今まで『必殺からくり人』(1976年)という別シリーズのトップだった山田五十鈴が上置きで加わり、親子で三味線屋をやっている、というメインライターの野上龍雄さんの設定が生き、五十鈴さんの三味線の撥(ばち)での殺し、中条さんの三味線糸での殺しという技が画面的に面白く、ことに糸での殺しなんて物理的におかしいのですが、見栄えがしました。月代をきれいに剃り、きちっと髷を結い、僅かな鬢のほつれ毛が色気たっぷり、というスタイルも映えた。三田村さんのラフな地頭と好一対のクールな二枚目。必殺シリーズ屈指の好メンバーが揃ったのです。音楽も変わった。殺しの出発がトランペットのファンファーレになった。山内久司プロデューサーの大改革です。ここから必殺はマニア向けの番組ではなく、人気番組になる。ただ、これだけ役者が拮抗すると張り合う。内紛の種が、ここで既に蒔かれたのです。 さらに並行して京マチ子さんがメインの、『必殺仕舞人』(1981年)シリーズが始まる。旅芸人で殺し屋、というシリーズで、各地の民謡が悪をシンボライズする、という仕組み。高橋悦司さんの朴訥さ、本田博太郎さんの小心さ、京マチ子さんの色気たっぷりの妖艶さに、西崎みどりさんの唄がマッチ、これもヒット。必殺シリーズは良き復活を迎えた感があった。しかし、あとで聞くと、予算が常にキツかったそうです。京さんのシリーズが続かなかったのも、出演料問題だった、との説もある。≪殺し屋≫のおハナシでは、テレビ常連のビッグスポンサーが全く付いてくれなかったそうで、『必殺』の異端ぶりは、逆説的に言うならば常に健在だった訳です。 さて、必殺シリーズがこの『新・必殺仕事人』と『必殺仕舞人』に入る前、準備と助走がなされている間に書いた作品について話しましょう。 『愛した、跳んだ、そして散った』(1980年)。クリント・イーストウッドがイメージアップした硫黄島の戦いで戦死した、1932年のロス五輪で馬術のグランプリ障害飛越競技金メダリスト、西竹一男爵を描いたのですが、テレビの90分に入る規模ではなかったですね。西さんのご子息やJRA竹田垣徳氏など、貴重な取材がメインになり、当時のハリウッドでバロン西の愛称で親しまれた遊び人ぶりなど、そして騎兵の時代が終わって戦車部隊に変り、孤島への派遣で戦車が使えず、埋めて戦車砲だけで戦わされた無念さなどの面が描けず、結局夫人との出会いのボーイ・ミーツ・ガール・ドラマ、その愛だけがメインになった。プラニングが弱かった、という反省があります。 9代目松本幸四郎さん(当時染五郎さん)主演で、貴公子ぶりが鮮やかでした。従卒の役の粟津號さんが、ちっと崩してやろうと思い、横浜で有名だったストリップティーズ、マナイタショウへ連れて行った珍談があります。幸四郎さん、人目に立たないよう、大きなマスクにサングラス、帽子目深というスタイルで入ったのでかえって人目に立ち、そしてその姿でカブリツキに坐らされたもんだから、ストリッパーたちが面白がって異常接近、満場の注目を集めてしまったらしい。 このあと、鶴田浩二さんで、やはり2時間スペシャル『42時間の恐怖』(1981年)をやります。たしかテレビ本格主演の最初ではないか。ウィリアム・ワイラーの傑作『必死の逃亡者』(1955年)のジョセフ・ヘイズの原作の脚色です。平和なサラリーマン家庭へ凶悪な逃亡犯3人が侵入、高飛びの中継地点とする。中年の管理職である主人と、その町の出身で旧知だった主犯との息詰まる対決。映画では逃亡犯の主犯ハンフリー・ボガートが主役ですが、オリジナル・キャストは主人がスペンサー・トレイシーでボガートと豪華対決の予定が、キャストの並びでもめてトレイシーが降り、フレドリック・マーチになった。 小説では主人の方が主役、と言える。で、そう脚色した。鶴田さん、受けてくれました。そして一ヶ所、セリフをご自分でふくらませた。原作にある主人公の唯一の見せ場、凶悪犯が幼いわが子を抱きすくめて拳銃を突きつけ、人質にして警察の包囲を突破しようとするのへ、その拳銃の弾は策略で主人が抜いてあるが、それを言う訳に行かず、ただ、そいつは射てない、射つ度胸はない、父親の私の言うことを信じてこっちへ来い、と説得するその一点。原作は既に古書で鶴田さんが読んでいたとは思えない。だが、役の勝負どころをはっきり読みとり、ここをふくらませた。鋭い勘、頭の良さ。感心しました。太平洋戦争後の、時代の困難を生き抜いた映画スターは、頭が良く、考え深い大人が多い。佐田啓二、池部良、高峰秀子、みなさん、そうです。なおこれで、小林薫さんがテレビ初出演してます。 そして柳の下の二匹目のドジョウを狙い、キングスレー原作、おなじくワイラー作品の『探偵物語』(1951年)を企画しました。カーク・ダグラスのやった刑事を鶴田さんに、というアイデアでしたが、原作取得で躓きます。そもそもハリウッドで映画化されたものは獲得が難しい。『必死の逃亡者』は発注局の日本テレビに助けて貰った。これも、と松竹が頼んだら、さすがに呆れられておじゃん。 鶴田さんのお宅へ打ち合わせに行った。そのときの印象が残っています。奥様に、だだっ子ぶりを発揮されていた。家具などが紫系統でまとめられていたのが、奥様の洗練されたテイストを感じさせました。このあと、鶴田さんは本格的にテレビに参入、山田太一さんと組んでNHKで傑作を連発していくことになるのです。 『赤かぶ検事奮戦記』シリーズ(1980年)がフランキー堺さんで始まり、そして土曜ワイド劇場では『山峡の章』(1981年 松本清張原作)という大当たりの作品が出たり、テレビのサスペンスにならない、と言われていた『書道教授』(1982年 これも松本清張)にトライする冒険をしてみたり、TBSが同じ土曜の同じ時間帯に『ザ・サスペンス』という2時間ミステリー枠をぶつけてくるショックに会ったりしますが、それは、次回に。 必殺シリーズは、そしていよいよ、受験生が殺し屋に加わる、という『仕事人Ⅲ』(1982年)に入り、忽ち賛否両論でファンからも制作する身内である撮影所、テレビ局、共演者からも轟々と湧き起こる、という状態が現出する。それも、次回。

January 1, 2009

信天翁通信(あほうどりつうしん)XII シナリオを書いてみよう(その3)

なによりも大切なのはキャラクターです。優れた、面白いキャラクターを考え、そのドラマを構築する。演劇も文学も大体それで決まります。ただし、キャラクターは単独で独立して生きることはできない。ストーリーとプロットがなければ、キャラクターは生きない。生彩を放ちません。村上春樹を見てみましょう。この作家の創るキャラクターは、じつに独創的です。そして、ストーリーもプロットもまた極めて独創的であり、お互いの独創性がみごとに相乗作用を上げています。ただし、独創性が突出し過ぎると、観客はついていけなくなる。そこはご用心を。 またキャラクターは、ストーリーとプロットによって、≪育てられ≫ます。手近なサンプルとして『シャーロック・ホームズ』を見てみましょう。彼はきわめてトンがった天才です。その推理はとても面白い。だがワトスンというちょっとロマンチック傾向があり、しかも医者である友人(語り手)がいてこそ、その天才、その推理が生きる。ホームズの天才は認めるが、その推理を疑い、誤解してユーモアをもたらす。小説の語り手として絶好の存在であり、常識というリアリティをもたらすのです。アガサ・クリスティーの、フランス語訛りのベルギー人探偵エルキュール・ポワロ、その推理もまた、友人ヘイスティングスのロマンチックな誤解推理によって生きる。プロット=語り口は、このように大切なのです。 それはストーリー、その技法なのではないか。プロットというのはどんな技法で、ストーリーとどう違うのか?なぜ必要か?と疑問を持つ人はきっと居るでしょう。プロット(plot)を辞書で引くとびっくりします。①の意味はなんと、「陰謀・策略」なのです。②でようやく、「筋・構想・仕組み」と出てくる。そもそもはつまり策略です。読者・観客を引き寄せる陰謀・策略なのです。ある文学史家によると、「王が死に、そして王妃が死んだ」というのがストーリー、「王が死に、悲しみの余り王妃が死んだ」といえばプロットなのです。小説・戯曲は必ず良きストーリーに加えて、良きプロットを持っている。ことに戯曲では必須です。 だいたいドラマは、特に舞台劇では、必ず事件の終了寸前、クライマックス寸前から始まる。そして始まったらノンストップ。それが正しい書き方です。たとえば『オイディプス』は、主人公の忌わしい運命が暴露される日に始まり、その日のうちに終わります。『ハムレット』は、父の亡霊の恐ろしい死の秘密から始まり、いかに復讐するかで進む。敵である叔父はハムレットの父を殺して王となった秘密を封じようとし、その叔父と再婚した母への憐れみ、憎悪が女への不信をもたらし、恋人オフィーリアを狂死させ、その父、内大臣ポローニアスを王と間違えて殺し、その子、オフィーリアの兄レアティーズの仇討を秘めた剣の試合が組まれ、試合用ではなく刃の付いた、しかも毒を塗った剣で殺されようとします。そこがクライマックスで、ドラマはここまでハムレットの叔父の罪の確認を経、母を責める行為を経て、一気にノンストップで進む。ドラマにおけるプロットの役割をよく示しています。 プロットがないと、ドラマもキャラクターも生きない。優れたキャラクターほど、強いストーリーとプロットが必要なのです。もちろん、映画やテレビでは生活感というリアリティが大切で、日常を日常的に生きる人たちのドラマがメインです。そもそもが「動く写真」から出発したアートです。日常的な題材、描写が、ストーリー、プロットと強く関わってきます。そしてそれはまた、それを生む国の風土、国民性と深く関わってきます。その国の映画はどういう生まれ方をしたか、と関わるのです。 エジソンが生んだ、アメリカ映画。エジソンは子供の遊び道具、パラパラ漫画と同じレベルと見ていた。アメリカの映画はスラプスティックから生まれ、チャップリン、キートン、ロイドなどの、≪セリフ≫の字幕不要の作品群を生み、アクションがメインの独自の流れに。日本ではチャンバラ大喜劇の実写から時代劇をまず生む。チャンバラと、ドロンドロンの忍術ものです。フランス、イタリアでは同時代の名優たちの演じる舞台を、そのまま写した。サラ・ベルナールやサシャ・ギトリなどの名舞台が映画化されています。≪演劇のドラマ≫の実写物が始まり。名優の演技を大勢に見せたい、そこが出発点だったからです。セリフは字幕スーパーです。フランス映画はいまだに「脚本」と「台詞(セリフ)」が別々にクレジットされます。グリフィスの『イントレランス』(1916年)や『國民の創生』 (1915年)という芸術大作は、イタリーの大作映画の二番煎じなのです。 さて、プロットとストーリーについて、概論しました。 4コマ漫画のサザエさんに、その優れた例があります。プロットはほんの日常の小話にさえ組むことができて、効果を上げるという例です。一コマめ。ワカメちゃんが、一枚の写真、髪のふさふさした男性、のを母フネに示し、「これ、だあれ?」と聞く。二コマめ。フネは笑って、「お前のお父さんですよ」。三コマめ、これがじつに傑作で、庭の木の下でひとりしょんぼりしてワカメが「じゃ、今のお父さんは2人目のお父さんだったのか…」 。四コマめ。父の波平が「失礼な!わしゃそれほど変わっとらんぞ!」 。フネは笑い転げ、ワカメは赤くなってもじもじしている。 長谷川町子は実にプロットの面白い人ですが、これはその中でも傑作でしょう。この三コマめの劇的な誤解と悲しみ、これが抱腹絶倒のクライマックスを生んでいます。良きプロットというのはこういうものなのです。そしてキャラクターはこのようにストーリーとプロットを与えられて、初めて生きるのです。 映画は、フィルムまたはビデオに印画された作品を、大量の観客に見せるというサービスです。印画されるのは現実の人間、その世界です。どんなハチャメチャな冒険譚でも、それを為す人間と、それが存在するリアリティを描かねばならない。時代劇でも、撮影された≪時代≫からは逃れられない。人も世界も、その時代の現実を背負っている。それをしっかり踏まえつつ、映画の文法を理論的に成立させたのがエイゼンシュテイン、作品は『戦艦ポチョムキン』(1925年)。この人の映画の文法を次に語ります。 『戦艦ポチョムキン』は、ロシア革命の初期、待遇の酷さに水兵たちが反乱を起こした戦艦が、オデッサに入港する。オデッサ市民たちが歓呼して迎える。その市民たちを皇帝側のコザック騎兵が襲い、追い散らして、傷つけ、殺す。このオデッサ港の大きな石段のシーンがじつに迫力があり、映像ドラマとして傑作で、せんだって映画『アンタッチャブル』(1987年)のシカゴ駅階段の射ち合いのシーンで、転がり落ちる乳母車というモチーフの一つを、そっくり真似ていました。エイゼンシュテインと『ポチョムキン』へのオマージュでしょう。ただ『ポチョムキン』はドラマとしては単純明快で浅く、エイゼンシュテインのものとしては『アレクサンドル・ネフスキー』(1938年)の、氷上のドイツ・エストニア連合軍対ノブゴロド軍の戦いの方が、ドラマのクライマックスとしてはコンパクトにまとまっています。 エイゼンシュテインのモンタージュ理論というのは、カットのつなぎは全く正反対のカットをつなげろ、正に対して負、そうするとその2つから全く新しいイメージの正が生まれ、力強くなるということです。マルクスの弁証法に影響を受け、たまたまソビエト革命のさなかだったからえらくもてはやされた。日本でもみんなモンタージュをやろうとした。まあ当時は日常ドラマよりチャンバラ映画の時代だったから、オデッサの階段的なセンセーショナルなタッチが受けたんですね。こんな笑い話も生まれた。重病人のとこへ医者が来ている。病状を見て難しい表情になる。次のカットで、薬匙がぽんと投げ出される。これはどういう意味だと、みんなきょとんとする。すると監督は得意満面、病状が重く、「医者も匙を投げた」んだ、と。みんなガックリきたそうです。サイレントの時代で、なるべくスポークンタイトルは使わず、描写で見せようとしてたからこんなアホなモンタージュ紛いが生まれたのですね。 芸術表現は、その芸術が生まれた時代には、なかなかその表現の真の使い方に達しないものです。ことに写真は、人・物・風景を写せば成り立つから、大人の玩具、家庭の記録用、といった日常性からなかなか独立しなかった。いい風景に音楽を流しているだけみたいな映画は、トーキー初期随分乱発された。その中からドイツでは『会議は踊る』(1931年)という、ロシア皇帝とドイツ娘の恋愛オペレッタ、フランスではルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)という、これもオペレッタが、優れたトーキー映画として生まれます。世界初のトーキーのハリウッド映画『ジャズ・シンガー』(1927年)も同じようなものだった。日本ではチャンバラ映画が主体だったから、その中で生かされる。ただ、トーキー第一作は現代劇『黎明』(1927年)で小山内薫監督、出演は丸山定夫ら、築地小劇場の俳優たちでした。だから、音楽より、まずセリフを大切するという良い流れで始まったのです。初めにセリフありき、が日本映画のトーキーの精神だったのですね。

February 1, 2009

信天翁通信(あほうどりつうしん)XIII 大船撮影所いろいろ(その4)

小津さんと同時期にクランクインして、一週間ずつ付いた作品に触れておきます。 岩間鶴夫、田畠恒男、番匠義彰、野村芳太郎さんたち。 岩間さんは『恐怖の対決』(1958年)というサスペンスで、助監督チーフは古賀三太郎氏でした。何もしないで悠々としていた。組を仕切っていたのはセカンドの篠田正浩氏。カメラマンの小杉正雄氏。この二人は、篠田さんが一本立ち後、コンビを組みました。古賀さんは予告編を作るだけで、現場では悠々と無為の人だった。大船三天皇と呼ばれていた奇人の一人で、予告編を撮るだけのためにエキストラを30人ロケへ呼ぶ、そんな大胆な性格の人でした。三天皇の話はのちほど。私はこの組で始めてカチンコを打った。 「本番!」の声でしんと静かになった中で、カメラの前でシーンナンバー、カットナンバー、撮影順ナンバーをコールして打ちさっと引く。これは上がりますね。巧い人のカチンコはフィルム3コマしか写ってない、なんて伝説があったりして。慣れてくると片手で打てるようになる。だけど、この技術だけはいくら巧くなっても、人生においてなーんの意味もないですね。何の役にも立たない。 田畠さんは実に穏やかな紳士でしたが、会社に色々押し付けられて、この時は青春もののラブコメだった。この組で初めて宿泊ロケへ行った。朝早いのが辛いけど、楽しかったですね。この頃はまだ確実に儲かっていた。テレビがなかったですから、一ヶ月に4回は必ず映画を見るなんて家族もいた。一日だけの東京ロケで前夜、必ず旅館へ泊まった。歌舞伎座の裏通りの厚生館(コウセイカン)というのが松竹の定宿。今も厚生館ビルとして残っています。 番匠義彰さん。作品は漱石の『坊っちゃん』(1958年)。坊っちゃんは東映を止めてフリーになった南原宏治(当時は伸二)。同じく日活をやめて松竹に来た杉浦直樹さんが、特出で新聞記者。マドンナは有馬稲子さん。杉浦さんは石原裕次郎があっと言う間に主演スターになったため、発奮して松竹へ移ったらしい。『錆びたナイフ』(1958年)で準主役のカタキ役を演じた後の移籍でしたね。 この『坊っちゃん』は本来、野村芳太郎さんが撮るはずだったのが、キャスティングで会社ともめて降りて、佐田啓二、高橋貞二、岡田茉莉子を連れて東北オールロケ作品に強引に出発してしまっていた。それが帰って来てセット撮影に入り、そっちへも付きました。当時まだカラー作品は現像が高くつくので、以上の4本のうち、番匠組と野村組だけがカラー。それもラッシュのときはアタマ1カットだけがカラーで焼かれ、あとはモノクロでした。編集・ダビングはそれでやった。なんせ急遽クランクイン、すぐロケへ行ったので、「題未定」と台本表紙はなっていましたね。この作品はダビング・ミックスまで付きました。決まったタイトルは『モダン道中 その恋待ったなし』(1958年)。 それやこれやで仕事を覚えたわけですが、同時に私のための個人教育として、田村孟さん(のちの脚本家)がずっと教えてくれた。二人で酒を飲んでいた時間の方が長かったかもしれない。田村さんはちょうどスクリプト係のシートマンになったばかりで、編集のツナギの面白さを知ったばかりだった。もっぱら、その面白さばかり教わっていました。私は既に大学時代に関西で、制作座というアマチュア劇団に客演し、そのまま入座しました。関西新劇大合同で関西芸術座というプロ劇団が生まれましたが、そこまで居たため、裏方の仕事には慣れていました。衣装や小道具の付帳も書けました。そういう意味では、比較的すぐに役に立ったかもしれません。気持ちも楽でした。 しかし、今考えると、それは良くない在り方です。そういう裏方仕事に屈辱や不満を抱いて、早く監督になろうと決心する方が良いのですね。芝居の脚本も既に3本ぐらい書いており(上演はされなかったけれども)、本来シナリオを書くのもすぐやれそうだった。でもやらなかった。一番最初に貰った台本に、自分なりにコンテ、カット割りをやってみたけれど、あくる日の現場では丸っきり違っていてアホらしくなったり、助監督部のシナリオ集が僕たちのを載せるために出たのへ、同期の山田太一さんがとても面白い奇想ドラマを書いたのにショックを受けたり、それやこれやで書くことに気持ちが向かなかった。働けば忙しい作品ほど残業料が入る。仕事のないときは大阪の家へ帰ってもよかったし。「研究中」という札が下り、次の仕事を助監督室の監事たちが決めて呼び出されるまで自由だった。それでちゃんと月給もくれたしね。安かったです。普通の会社だと、入社したときから15,000~16,000円くれたみたいだけど、松竹は最初の一ヶ月は9,000円、そのあと12,000円。 ひとわたり組に付いたあと、初めてフォースとして1本仕事をすることになる。堀内真直監督『自殺を売った男』(1958年)。大下宇陀児(おおした うだる)原作の、ちょっと変わった題材でした。自殺志願の男が、悪事に利用されるというストーリー。主演は田村高廣と、東映から移籍してきたばかりの高千穂ひづる。そして新人の泉京子も出演しました。泉京子は、有名な牛鍋屋の娘で、グラマラスな姿態を買われて大部屋からスターに抜擢された人物でした。出が役者ではないという弱点があったものの、この作品ではマイナスにならなかったと思います。彼女の素質は生かされず、演技の未熟さが目立つ感じではありましたが。田村高廣は役柄の模索に悩んでいた頃で、高千穂ひづるは移籍で意欲に燃えていた。この二人は熱演でした。 私個人の記憶としては、深夜、終電後の浅草駅での大ロケーションがあり、エキストラを動かす経験をいろいろしたことです。新劇やってたから、演技は自発的、方向性のみ示す、という演出方法にとまどいましたねえ。動きをつける、ってことに。あと、下田で長期ロケがあった。蓮台寺温泉というところに泊った。あとあと考えると市内には大きな旅館がなかったのね。ハリスが滞在していた了仙寺が残っていて、見学に行くと性の玩具や艶本の博物館になってて驚きましたね。エロ寺って呼ばれていた。

March 1, 2009

信天翁通信(あほうどりつうしん)XIV 町歩きいろいろ(その4)

陸軍将校(参謀課の佐官)に嫁した2番目の叔母を頼って行き、土蔵の中へ住まわせて貰うことになりました。昭和20年は不作であちこちで飢饉状態が起きていたらしいが、農家へ疎開するとともに米の飯は食えました。 逃げた先の富山での転校体験は辛いものでした。見世物扱いなのだ。教科書を読むときの早口が笑いの種。富山弁が判からない。言葉が通じないとどうしても除け者になる。それでなくても早生まれで一年分育っていなくて、そして背が低いチビだったから。8月初旬なのに何故夏休みではなかったのか、いまだに疑問なのだが、農繁期に手伝わされるための変則授業だったのではないか。稲刈りの手伝いというのが稲の束を2つ以上背負って運ぶのだが、私はチビで非力だからひとつしか背負えない。女の子にまで馬鹿にされて辛かった。 そして、8月15日。叔母のところは古い寺で、墓地や田も持っていた。その寺の本堂でラジオを聴いた。雑音が激しく、あの竹法螺のような天皇の声が、何を言っているのか判らない。覚えているのは、たまたま堺から来ていた父親が、「ああ、負けたんや。これは負けたんや」と大声で言ったことだ。現役の陸軍参謀の家で、家族の前で、そんなことを言っていいのか怖かった。子供にしては気が回り過ぎるようだが、度重なる疎開・転居で人を恐れるようになっていたのだ。 ただ、富山の田畑の広大さや庄川や飛騨山系の雄大な山々の景色は、町育ちの私たちにとっては心を広くさせるものでした。最初の疎開先である堺の金岡でも、畑に出てはハコベやヨメナを摘んでお浸しにして食べました。野草のフレッシュな味に驚きました。さすがに農作地帯では米もちゃんと配給され、私たちは飢えを知らなかったのですが、史実ではもう配給米の確保も揺らいでいて、この夏から秋にかけては不作で、都会では決定的な配給米不足が起こりつつあったはずです。 さて、戦争が終わった以上、堺へ帰らなくてはならない。殺人的混雑の列車に無理やり乗り、父はデッキの戸口に重いリュックを担いだままぶら下がり、大阪へ向かいます。当時、まだ北陸線は単線で、おまけに機関車の形態や配電コースが、米原以南の東海道本線と違っていて、米原で乗り換える。湖西線ができた今でも、かなり最近まで、塩津で湖西線と北陸本線が列車を繋がなくてはなりませんでした。手間暇の掛かる旅でした。 さて、大阪梅田に夜着くと、空襲に備えた灯火管制がなくなり、煌々と燈がついていて明るく、まずは感激しました。そして、構内にはボロと垢だらけで飢えている浮浪者の大群が寝泊りしていることに驚きました。その大半が子供で、空襲で親も家も失って浮浪児になっているのです。駅で寝泊りし、旅行者に食べ物を乞い、掻っ払いを働いて生きていました。その凄まじい光景を見回して驚いていると、賑やかな笑い声が耳に入り、そっちを見て激しいショックを受けました。。 派手な服装、化粧の女たちが嬌声をキンキラあげながら来る。その女たちが追ってくるのが、生まれて初めて見るアメリカ兵で、しかもアフリカ系だった。大声でスラングを喋り散らし、鮮やかに白い歯を見せて笑っていた。この黒人兵たちが戦争の終わりを、敗戦を、天皇の竹法螺勅語よりもはっきりとリアルに思い知らせてくれたのです。 そして、私たちは父の勤め先の寮に住むことになりました。最初に直面したのは「飢餓」でした。敗戦直後の秋、その次の秋、続けざまに不作で、ことに次の秋は厳しかった。食べられるものは草でも食べました。米の配給といっても米は殆どなく、干し芋や干しトウモロコシ、干し甘藷、米軍のレーションが手に入る程度でした。レーションは紙箱に入っており、A、B、Cの3種類があり、それぞれ朝食、昼食、夕食になっています。朝食はチーズとパンがメイン。昼はどうだったかな。夜は肉も入っていたらしいが貰ったことが無い。チーズというものを知らない日本人が多く、石鹸だと思って身体を洗った人もいたらしい。髭剃りクリームももたらされた。あの金持ちの伯父がアメリカ軍のを手に入れていた。ハミガキと間違えて使ったら、口中泡だらけ、鼻からも泡が出たっけ。 ついには米代わりに茶色のザラメの砂糖が配給され、カルメ焼きにすると満腹感があるといわれて、その小鍋と攪拌用の木の小棒まで買わされた。夜店で売っているけれども中が空っぽだから満腹感なんてない。そこいらのサツマイモ畑で収穫が終わると、一斉に入り茎を抜いた。皮を剥ぐと食べられるのです。当時はイチジクが空き地や庭地に野生同様に生えていて、その実を争奪しました。グミの実も。墓地へ行くと墓碑によく蜂が巣を作っている。煙で燻して蜂を追い払い、蜂の子を食べた。新しいものは生でも旨かった。もう針を持っているのも居て、口を刺されて騒いだっけ。イナゴも食べた。羽根や脚をむしり生食するのです。米を食べたばかりのは、お腹に米が詰まっていて旨かった。いつも本当に腹を減らしていました。それはもうはっきり≪飢え≫でした。 名前だけは「国民学校」から「小学校」に戻ったものの、さてしかし、どう授業していいか先生たちも困り切ったらしい。英彰国民学校は英彰小学校。焼け残った講堂(あの空襲避難所)を幕で仕切って教室にしました。先生や生徒の数は、空襲での焼死や地方への疎開でがたっと減ってました。授業は混乱していました。教科書の墨塗りがありました。戦争や歴史に触れた皇国教育部分を消すのです。形の上での民主主義教育が、前のめりにカリキュラムに介入。まず、生徒大会が催されます。全校生徒を校庭に並べ、さあ討論して学校へ要求を出せ、そんなことをアメちゃんが言ってきたらしいが、討論なんてやり方も知らず、テーマもないのにできやしません。やけくそな誰かが「明日は学校を休みにしよう!」などと言い出し、あっという間に全員賛成。先生達はみんな逃げていて、人の良い中卒の先生が残っており、こんなアホな決議にもにこにこ笑っていた。ただし、直後にその先生は校長と教頭から即呼ばれ散々締め上げられたらしく、一斉休校はなんとなくパアになりました。 クラスでの生徒会もたびたび開かれたけれど、お互いの日常の揚げ足取り発言ばかり。すると様子を見ていた元級長がすっと立ち、「先生のいうことをよく聞き、よく勉強しましょう」なんて、反対のしようもないアホ意見を言い、こりゃもう賛成多数で決まるわな。その程度の民主主義だったのです。言っておけば、この級長は弱い者いじめをやる、とっても嫌な嫌な性格でした。苗字は前田だった。 担任は前任の藤田先生が爆死したのか、転校か、来なくなり、門永先生というのに変わってました。本が好きらしく、漢和辞典の使い方なんかきっちり教えた。クラスで一番金持ちの家の子のとこへ、家庭教師に行っていた。学校の教科書をテキストにしているらしく、難訓な漢字をクラスで初読の時、その子だけがすらっと読めた。これは教育としてフェアじゃないよね。この先生は気分屋で、生徒を気まぐれに怒鳴った。私が席を探してうろうろしてたら、「ちょろちょろするな、鼠!」と怒鳴りつけた。そのくせ、僕が池田亀鑑の『源氏物語講話』を、伯母さんに買って貰って持っていたら、「おい、それ貸してくれ。お前こんなの読んで解るのか?」と、正直とも無礼とも誉め言葉ともつかないことを言われたっけ。この先生、おデコだったため、デコ永と呼ばれていました。 ローマ字の勉強から簡単な英語の授業もやることになった。教科書なんかなかった。戦争中、いちばん排米排英の話をしていた山田って先生が、その係になったのが可笑しかった。また、戦争中、徴兵を避けるために代理教員になっていたあんちゃんが、その係になり、野球もやらなきゃいけないというリーダーにもなっていた。なんか、いい加減な≪戦後≫でした。 そして新制中学ができ、英彰小学校の焼け跡の焼け残ったコンクリート障壁によせかけた木造校舎ができた。私はこの新制中学第一期であり、このあと新制高校の第一期生にもなる。この中学で覚えていることは、アメリカ軍軍政部から女性(日本人)の検査官が来て校長たちがパニクり、授業の引き締めを全教員に厳命、さぼってる生徒が居たりしたら大問題になるからしっかり指導把握せよと通達した。その大変な日に私は体育をずる休みして教室でさぼっていたら、その検査官と校長が入って来た。パニクった私は気分が悪くて体育は休んだ、と言いわけし、検査官はこういう生徒の管理はどうしてるのかと校長に聞き、英語ですらすらメモを取る。校長はパニクって、私もパニクって、後々大変なことになるんじゃないかとビクビクものでしたが、なんにも起こりませんでした。 新制中学になって何というか、窓が大きく開いた気分になったのは、社会科の副教科書として『民主主義』という厚い本が配られたことです。一読して、ほんとに気持ちが明るくなった。いい内容でした。この通りに日本が進んでいれば、まっすぐな国、まっすぐな国民になったでしょう。私と同年輩や先輩の人達も、読んでいる筈です。政治家になった人、財界人になった人、読んだでしょう?この素朴で熱い自由への意志、あなたたちの裡でどう生きてるんですか?それとも、≪日本に合わない≫から捨てたんですか?≪戦後レジームだから≫とかで? この中学の国語の先生が、私の作文をみんなの前で褒めてくれ、学校の文集に文章を書かせた。確か、ヒューマニズムがテーマだった。これで私は自分には絵のほかに(絵は得意でした)、文章が書けることが判り、現在の職業に繋がっていると思う。しかし、これで直ちにいじめが来た。同級生のみならず、先生の中にも、馬鹿にしたりいびったりするのが現れた。以下、次回に。

April 1, 2009

信天翁通信(あほうどりつうしん)XV 仕事にまつわるいろいろ(その4)

松本清張という作家は、それまでテレビではあまり活かされて来なかった不遇の人でした。こまやかな日常リアリティとサスペンス、クライムをみごとに調和させた作風が、テレビの日常性の中ではかえって活かしにくかったんですね。土曜ワイド初期、まだ90分の時代、『声』(1978年)がその作風をよく活かしていると考えた私は、松竹側のプロデューサーである佐々木孟さんに提出しました。佐々木さんは巨匠渋谷実のプロデューサーでもあり、中村登とも『紀の川』(1966年)という大ヒットを放っていた、既に有名な人物でした。倍賞千恵子さんなら企画的にOKということで、その親友に泉ピン子さんを私が推薦しました。ピン子さんも、倍賞さんとならと乗ってくれたのですが、その倍賞さんが土壇場で降りた。まだ土曜ワイドと私が創ったドラマトゥルギーを信用し切れないとこがあったようです。松竹のテレビ部長の山内静夫氏など、「失敗作だね」と面と向かって言ってたからね。 ところが、これが視聴率13%。10%を切っていたところだったので、みんなニコニコ。続いて、同じく清張で、『顔』(1978年)。今度は倍賞さん、出てくれたのですが、清張さんがうっかり原作を二重売りしちゃって、TBSの日曜ドラマで同じものが出ちゃった。すまん、すまん、と謝っておられました。でも向こうは1時間ドラマだったかな。ホームドラマ路線の日曜劇場だったので、カラーは全く違うものになりました。 さあそれから松本清張が当りだして、松竹では続けて作り出し、『紐』(1979年)、『種族同盟』(1979年)とことごくヒット。これはテレビドラマ向きではないと、ANBのプロデューサーが反対したのを押し切った『書道教授』(1982年)。ノゾキもやれる密会の宿ではないかという、疑惑設定が絶対受けるという私の判断が当たりました。視聴率20%。試写のとき、まだ局プロは失敗作だ、と投げていた。いまやテレビ化が繰り返されています。私の最高視聴率29.7%を出した『山峡の章』(1981年)は、これはテレビ向きの題材だからイケるという、プロデューサーの判断でした。新婚の夫が新妻の妹と東北の山深い温泉で心中する、というショッキングな謎の事件が汚職の責任を擦り付ける為の殺人であり、心中なんてあり得ないと探る妻が、結婚前からの夫の友人であるジャーナリストの助けで真相に達する。ラストは玉川堤の謎めいた療養所へ潜入、殺されかけるのをジャーナリストに助けられる、というプロット。プロット組むのにけっこう苦労しました。話が複雑で。 そして松竹社員だった私は、京都へも出張執筆させられる。必殺シリーズへの参加です。最初は中村主水ではなく、山田五十鈴、沖雅也の『必殺からくり人・富嶽百景殺し旅』(1978年)。広重描く富嶽百景の一つ一つに、罪と真犯人が暗示されている。私の担当は『本所竪川』。必殺シリーズ独自の視覚世界を創造した名カメラマン、石原興の第一回監督作品でした。社員だから脚本料安かった!確か、1hもの6万、2hで12万。 『からくり人』の直後、またすぐ大船に呼ばれ、ライオネル・ホワイトの『真実の問題』を手掛けることになりました。この企画は私が提出したものでした。秋吉久美子を起用することが決まり、双子の兄弟とそれにそっくりの犯人という難しいキャスティングで、松竹の佐々木プロデューサーには苦労をかけましたが、高視聴率を獲得しました。放映タイトルは『笑う真犯人 危険な妹』(1981年)でした。 そのうち、『必殺』が世界を変えようと動き始める。異色作『必殺うら殺し』。オカルトの世界です。私は三本書いたかな。これが視聴率が10%切るか切らないかという、当時14~15%が普通だった中では極めて低視聴率。よし原点へ戻ろう、そしてどれだけ続くかやってみよう、と『新・必殺仕事人』が始まります。私も加わり、私の回で、題材の面白さ山田五十鈴、雁治郎対決というキャスティングの凄さから、18%という数字が出、『必殺』は復活を果たします。そして世界が変わる。山内久司プロデューサーの狙いでした。その黄金時代が再来します。 受験生とはいっても、その時代では≪素読吟味≫(そどくぎんみ)という、直参の子弟のための一年一度の学問テストが正式のものですが、これでは受験生という感じが出ない。殺しの術の道具もない。そこで医者の家系にし、長崎留学、シーボルト塾に入るため勉強中ということにした。殺しの道具はライデン瓶を使っての感電ショック。殺しには余り成功せず、探索とアシスタント役を千代と組んでやる、そういう設定にした。演じたひかる一平は、NHKの歌謡番組で見つけた。紺ガスリと袴という書生姿が似合いそうだった。事実、似合いましたね。彼の登場には、スタッフや撮影所での批判がかなりあり、必殺ファンからも批判が出た。ガキなんか出すな! 驚いたのは、それで判ったのですが、田辺聖子と白州正子が批判メンバー、つまり必殺ファンだったということです。これにはみんな喜びましたねえ。天野祐吉さんたちの『広告批評』という雑誌から『必殺』製作側対ファン側という座談会が申し込まれ、ABCプロデューサーの山内久司さんと、私が出席しました。可笑しかったのは、ファンの側は、もっとハードに、もっと悪を大きく、という声が大きく、我々作る側は、今の『必殺』は、かなり市民サイドになってしまっているからリアリティを大切に、という主張でした。 大体、小市民にとっての悪はお役所官僚か、奉行所関係、ヤクザとか暴力団になりがちです。そして殺せばおしまい。ドラマとしては日常ルーティン、悪も深く大きくはない。生活・人間を深く描くことが大切になるが、時代劇で一時間ものというと、それも限界がある。この限界がはっきり見えたのが、初めての映画として『必殺』を作ることになった時でした。 「これは殺し屋同士の殺し合い、で行くしかない。」そう山内久司プロデューサーが言ったのです。びっくりしました。そんな単純なメイン・プロットで二時間持つか?だが、執筆に掛かると、いつもやっている一時間の話では確かに持たないが、弱者の恨みを晴らすという部分は『必殺』の芯だからそこは外せない。共作者の野上龍雄さんによる、若い女郎の愛猫が女郎の元締め夫婦のイジメがもとで殺される、というタネで、仕事は前進。その殺しをきっかけに江戸の闇の世界を仕切ろうとする集団が現れて介入、次々に江戸の仕事人が消される、そんなストーリーになり、ラストは芝居小屋での血戦、殺し合い、それでおしまい。最後の脱出は藤田さんの提案で潜水艦に。なんかゴッタ煮のようなドラマになりましたが、キャスティングの面白さと話の運びの奇抜さで見ていて面白く、大ヒットしたのです。会社から私に祝電が来たっけ。 そして、テレビの方も節目節目に二時間スペシャルを入れ、新しいシリーズに入っていくという形が出来ます。そのきっかけになったのが、最初の二時間スペシャル『仕事人アヘン戦争へ行く』(1983年)です。アヘン戦争で親兄弟を殺され、旅芸人の一座へ入って日本へ逃れてきたアグネス・チャン。盲目の彼女を拉致、口を塞ごうとする清国の密使、香港の見世物師、鰐淵晴子(入船屋お北)。アグネスを助けて主水たちと組む、伝馬町大牢の隠し囚人、表向きは牢死した筈の平賀源内に宮口精二。源内を送って来る町奉行、遠山の金さん=栗塚旭。そして、長崎へ気球でやってきたセントヘレナ脱島のナポレオン=クロード・チアリ、その気球で香港へ飛び、アグネスを故郷へ送り、親兄弟の仇討ちをしてやる仕事人たち。仕事人初の海外ロケでした。 こうして、必殺シリーズはまた新しい出発をします。『必殺仕事人Ⅴ』(1983-84年)で、新メンバーに村上弘明、京本政樹が加わります。 新シリーズにとって難しいのは、二時間スペシャルの題材です。山内久司氏の指摘は的確で、そもそも殺しがひっそり行われるから大きな話にならない。二時間の映画とかスペシャルにするには、大きな悪のからみが必要なのです。この悪の設定が普通ではつまらない。いろいろ試しましたが、どうしても史実絡みになってしまう(後で群述します)。思い切って西部劇にからめるのもやった。『主水、第七騎兵隊と闘う』(1985年)。カスター将軍を殺したのは主水たちだったというサプライズ設定。正月にちょいと散歩に出掛けた主水が、おりく(山田五十鈴)に引っぱられ、天保水滸伝の利根川での血闘に巻き込まれ、その最中にワープして西部へ。そしてカスター将軍率いる第七騎兵隊とシッティングブル率いるネイティヴアメリカンの戦いに巻き込まれ、騎兵隊に親を殺された娘(水前寺清子)の頼みでカスターを殺す、というお話なのですが、シッティングブルの孫娘から、「カスターを殺したのは私の祖父だ」と厳重な抗議が来て、訪日中だったその人にプロデューサーが会いに行く、という事態が起きます。黒澤明がストーリーの飛躍ぶりと奇抜さに感心した、という話も、仲代達也から。それらは次に。

May 1, 2009