<?xml version="1.0" encoding="utf-8" standalone="yes"?><rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"><channel><title>エッセイ on 脚本家吉田剛公式サイト</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/</link><description>Recent content in エッセイ on 脚本家吉田剛公式サイト</description><generator>Hugo</generator><language>ja</language><lastBuildDate>Fri, 01 May 2009 00:00:00 +0000</lastBuildDate><atom:link href="https://yoshidatakeshi.jp/essay/index.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-01/</link><pubDate>Sun, 02 Mar 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-01/</guid><description>&lt;p&gt;信天翁通信（あほうどりつうしん）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;と、いうのを始めます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;阿呆鳥、信天翁。アルバトロス。アホウドリ科アホウドリ。両翼の全長が2メートル。最大級の海鳥ですが、日本の鳥島に200羽（*旧データ）いるだけの国際保護鳥。なぜそんなに少ないのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;好奇心が強く、無警戒に人に近づくので羽毛を取るのに乱獲されたのです。簡単に殴り殺されて。で、アホウドリ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;信天翁という呼び名は、自分では魚を取れず、他の鳥の落としたのを拾ってきて生きている、つまり天を信じて生きているから、と古代中国の百科事典『五雑俎（ござっそ）』にありますが、これは古代中国人の見損ねで、潜水せずに魚をすくい取るワザの持ち主なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この、好奇心が強く、好きなモノやコトだけをすくい取るというやり方で、いろいろ書いてみるつもりで信天翁（アホウドリ）通信とネーミングしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いろいろ発信します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;200タイトル以上脚本を書き、監督作品もあり、そのエピソードいろいろ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;松竹大船撮影所育ちなので、撮影所のエピソードいろいろ。大船はディレクターズシステムで、監督が映画作りの芯であり、私のいたころは小津安二郎、渋谷実、大庭秀雄、中村登、木下恵介、野村芳太郎たちが揃い、大島渚、篠田正浩、吉田喜重、山田洋次たちが撮り始めていました。そんな、いろいろ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、必殺シリーズ後期のメインライターだったので、そのエピソードいろいろ。そして、書いたが実現しなかった岸恵子とアラン・ドロンがゲスト予定のパリロケ作品、主水が狸御殿へ行く作品、スペインロケ作品の脚本も陽の目を見せたい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じく未撮に終わった、明治の初め、御雇外国人の手を借りず、日本の若者二人が京都の人々と成し遂げた疎水作りのドラマ、も。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして町歩きいろいろ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シティボーイではないが場末の町っ子で育ったからか、町歩きが性に合います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;育った泉州、堺。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大船が仕事場で本社が築地だったので、鎌倉、横浜、新橋、銀座。また、仕事のロケ地。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;必殺シリーズで滞在した京都。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;みんな、今とは全く違う顔の町でした。それぞれに独自の表情を持っていました。今は、どうもみんな似てきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;盛り場、町々、郊外のたたずまい。そんないろいろ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では大船撮影所いろいろから始めてみます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（*編集注: 2015年現在、個体数3,000羽を超え繁殖地も増えているようです）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（*編集注2: 信天翁通信（あほうどりつうしん）は、2008年から2015年の間に執筆されました。原稿用紙に書かれたものをパソコンで文字起こししました。そもそも正確な日付がない上に、WordPressからGravを経て今では全く分かりません。表示されている日付は記事ナビゲーションを動かす便宜上のものになります。)&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）I　大船撮影所いろいろ（その１）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-02/</link><pubDate>Mon, 03 Mar 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-02/</guid><description>&lt;p&gt;正式名称は松竹撮影所です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;桜がみごとでした。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、田中絹代主演、『真昼の円舞曲』に、ワルツのリズムの移動パンで名カメラマン生方敏夫が撮った、在りし日の花盛りの姿が残っている筈です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その桜がよく映えた所内の建物群は、すべて撮影に使えるさまざまなスタイルで建てられていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;赤い西洋瓦に白壁の事務所棟は、小鐘楼を備えた教会風。テレビ映画でもよく使われました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;製作部、監督個室、助監督部、撮影部、美術部が入った二階建ての本館は、スレート葺きに白漆喰壁で、木組みを見せた寄せ棟造り。風見鶏のある鐘楼や古雅な玄関、ベランダも備えており、土曜ワイド江戸川乱歩シリーズの「悪の館」としてしばしば登場しました。また、「俳優館」と呼ばれる、南京下見の板張りの建物には、俳優の楽屋や美粧、結髪、床山があり、学校としてもよく使われました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これらは昭和27年、謎の放火で消失した本館跡の再建ですが、ステージ群も個性的で、蒲田撮影所から移築した蒲田本ステージ。また、グラスステージも陽光を入れるための鋭角の大屋根を、スレートに変えたもののそっくり残っていて、この二棟は現存すれば文化財ものでした。撮影所鳥瞰図は、『人は大切なことも忘れてしまうから。大船撮影所物語』（山田太一ほか編・マガジンハウス社刊）にイラストあり。私が解説しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、ところが、入社した春のこの桜を見ていないのです。入社式も知らず、恒例だったという木下恵介監督邸の招宴も知りません。補欠採用で6月入社だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大船の助監督試験の、独自の、実にユニークなシステムの結果です。ちょいとその顛末に触れましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;助監督試験は助監督から成る委員会が仕切り、会社も労政課も一切関われなかった。その第一次試験問題は、四百字詰原稿一枚のストーリー提出。題は《某月某日》。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この募集要項の掲示をたまたま見たのが、久しぶりの登校時で、当時全く大学へ行ってなくて演劇活動、それも学生演劇からプロの劇団（制作座→関西芸術座）へ繋がって入れ込んでいたので、ほんとに好運でした。時代（昭和33年）は、文学部出身に会社就職口がなく、新聞社とかNHKが大手で、民放テレビはコネ募集。教職課程を取っていた者が多く、私もそうで中学・高校教師の就職試験も受けていて、和歌山県の試験には通っていたのだが、NHKと朝日新聞には筆記試験で落ちてお先真っ暗。そんな時、この掲示に出会ったのです。すぐに、ストーリーを送りました。パーティーの招待状の日付を、うっかり某月某日というメモのままで印刷に出し配達されてしまう有閑マダムの話でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すると、第一次に通ったので、第二次の筆記試験に来い、という通知が来た。貧乏でしたから、夜中に乗ると朝着く唯一の大阪東京間各駅停車、たしか運賃900円ので行きました。大船中学校集合。校庭いっぱい受験者がいた。同期の前田陽一は四千人から選ばれたってよく威張ってましたっけ。出題は一般常識、外国語、選択で理科、または数学。そして、論文と物語。この二つが実に独自なものでした。モノクロームの写真が配られ、被写体は痩せ衰えた長髪の男で、乾からびたパンとも石塊とも見える物を口に当てている。そこから発想して、論文と創作を書くのです。《時代の飢え》といったようなことを、論文は書いた。創作は、そのころシューベルト『冬の旅』全曲をディスカウが歌ったLPが出て、入れ込んで聴いていたからそこから発想した記憶があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、これも通ったのです。面接試験でまた大船へ。今度は撮影所が会場でした。数人ずつ、口頭試問を受ける。そこで、はっきりと大船の独自性が見えました。試験官は、助監督の委員たちだけでした。《中村登監督》という名札があったけれど、欠席していました。会社側で覚えているのは、所長の大谷隆三さんのみです。つまり、助監督が仕切っていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その会場へ労政課の人が案内してくれたのですが、「あなた筆記で成績トップでした。絶対受かりますよ」と言われて、びっくりしました。ところが、その後来た通知は補欠。つまり、不合格。ガッカリというより、不思議に思った。口頭試問は落ちるムードはまったくなく、私の創作は委員の一人、野崎正郎氏（のちに監督。『広い天』『次郎物語』）がとても買ってくださり、朗々と読み上げて下さった、なんてエピソードも出たし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;筆記でトップなのに落とすとは、と、労政課がクレームつけたなんて入社後聞いたが、助監督会の決定は会社も動かせない。これが大船の助監督採用システムでした。試験委員の大島渚さんたちとは、のちに助監督仕事を共にしたし、田村孟さんは私の教育係をやってくれたし、なんで面接で落ちたのか聞く機会はあったのに聞かなかったなぁ。入れた嬉しさが強かったからです。桃山学院という家の近くの私立学校で教師をしていましたが、欠員が出来たから入社するかと問い合わせが来たので即辞めて上京しました。胸の検査で落ちた人がいたそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;で、即実務実習。給料は、半年間は試用期間ってことで9,500円。半年後12,000円になりましたが、残業が多かった。独自のシステムで給料が10日と25日と分けて支払われ、残業が2のつく日には分けて出されます。だから、仕事していればお金には困りませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実習は、そのとき撮影中の組に一週間づつ付いた。『恐怖の対決』（岩間鶴夫）サスペンス。生まれて初めてカチンコを打つという、サスペンスがありました。『抵抗する年齢』（田畠恒男）。生まれて初めて宿泊ロケへ行きました。伊豆でした。『その恋待ったなし』（野村芳太郎）。カラー映画初体験。まだモノクロの方が、多かったのですね。生まれて初めてダビング作業を経験。さて、そして小津組、『彼岸花』。小津安二郎初のカラー映画。これには、10日付きました。実に独自な、撮影現場でした。詳しく書いてみましょう。私の大船物語も、そこからが本番かもしれません。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）II　町歩きいろいろ（その１）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-03/</link><pubDate>Tue, 01 Apr 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-03/</guid><description>&lt;p&gt;町、そして町歩きが楽しくなったのは、松竹へ就職してからです。それまでの生まれた堺、堺の空襲で逃げた神戸、そこでも機銃掃射や空襲に会って逃れた富山、敗戦で戻った堺、大学卒業までいた大阪、それらはすべて生活空間だった。大学へは奨学金で通っていて、小遣いもその中から捻出、映画は第二封切の二本立て、演劇サークルの月イチの例会、それでギリギリ。そのためにいつも結構な距離を総て歩いて移動したが、それはここでいう町歩きとは違います。。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;議論、雑談の場は喫茶店。コーヒー30円。大阪人の常食のキツネうどんと、同じ値段でした。屋台の鮨が一皿三個付け、つまり3個で20円だったかな。焼酎、コップ一杯20円。新世界あたりで串カツが一本6円。そんな状況のところへ、大学4年の時、トリスバーブームが来ます。ハイボール30円。コーヒーと同じ値段でした。カウンターバーでバーテンダーがいた。このバーテンダーの質が高かった。太平洋戦争から戦後にかけて時を得なかった人たちが、やっと表舞台へ出てきたんですね。都会的なムードがあった。常連になると、小冊子『洋酒天国』をくれる。松竹入社後、新橋・銀座・鎌倉・横浜の町歩きの面白さを知ります。給料を貰うようになり、お金もかなり使えるようになった。バーというのが、町歩きの魅力のひとつであるというのが解ってくる。バーテンダーバーというのはそう高くなかった。女性がいませんから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;では、今行っているバーから昔のバーへ、つまり今の町歩きから昔の町歩きへ、《時》と《町》を往きつ戻りつしてみましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;銀座。ブリック、トスティ、ロックフィッシュ、三笠会館5517、モーリ（毛利）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;銀座は歩きやすい。店もヴァラエティに富み、老舗も多く残ってます。ただ小粋さが殆ど消えてショウウィンドウが大きくなり、海外ブランドショップが増え、町の表情が取り澄ましたものになった。昔は気安い町でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな中で並木通りのブリックは、1958年（昭和33年）当時のまま重厚な木組と表扉。入ったすぐ右が、厚いロングカウンターです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地下と二階は、スナック風。3時に開店ですから、夏など開け放った扉からの微風と街路樹の緑が楽しめ、ハイボールを楽しめます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;スナックも兼ねているから、メニューが豊富。トリハイもあるよ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トスティ。数寄屋橋通り北端。カウンターの端に通りに面した窓のある、あのクールと同じ造り。小じんまり、と静か。酒、種類豊富。私にとっては、ラムが。マスターは、あのトニーズバーのトニーさんの弟子。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで昔の思い出を。クールとトニーズバーはよきバーでした。マスターの古川さん、トニーさん、風格あったですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;古川さんの定位置はカウンターの端、通りに面した小窓の前。暮れなずむ街を眺めながら、「これがバータイムでございまよ」と、目を細めてにこにこしてらした。食前酒を軽く、または食後酒を軽く。ぐだぐだ尻の長いのはバーの飲み方じゃないというセオリーの慇懃だが、怖い人で、その前へはなかなか案内してもらえなかった。窓の前のコリドー街が堀割だった頃は、船で来る粋な客がいたそうだが、それは私の前の時代です。カウンターは立ち飲み。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;トニーズバーは、新橋十仁病院の横の通りの地下。代変りして今もあるかも。ロングカウンターだけのスタンドバー。奥のトニーさんの定位置の前だけ少し椅子があり、馴染みになると座れた。カルヴァドスのコレクションは有名だったが、どうなったか。ここもセオリーに頑固で、女だけでは絶対入れてくれなかった。英国流だそうだが、社会がレディーファーストではないので本末転倒ですけどね。女性同伴はＯＫで、「ご同業ですか？」と確認しての同業者割引があったっけ。トニーさんのアネクドートでびっくりしたのは、映画俳優高橋貞二の衝突事故に同乗してたって事。飲み仲間だったそうです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ロックフィッシュ。クールの隣のビルの二階。ここは、大阪キタのお初天神サンボアの流れで、その更に源流の北新地サンボアの創案した、冷やしたソーダで割る氷を入れないハイボールを、北新地サンボア銀座店とほぼ同時に開店提供しました。ツマミというか食べ物のメニューが豊富で、缶詰や既製品をうまくアレンジして、ヴァラエティ多彩です。マスターにはその方面の著作が二冊あり、ハイボールブームと偶然タイミングが合い、いつも混んでいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;5517。カクテルバーとしての風格、雰囲気は格別です。高い酒を使わないでハイレベルの味を出すのがカクテルの技という、チーフの信条は著書『銀座バーテンダーからの贈り物』通り、そこに記されたカクテルのヴァラエティが楽しめ、しかもお値段はリーズナブルです。チーフの稲田さんは八十二才で、いい仕立てのバーコートが似合う紳士ですが、怖いときは怖い。部下を躾けているときなど。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;モーリ（毛利）。外堀通りの南。あるビルの上の方。解りにくくていつも迷います。マスターは銀座ベテランバーテンダー三人組の一人。若いバーテンダーたちが修業に入ってるから、誰に当たるか運次第。マスターの出勤は早くないです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こう見てくると、銀座は町として腰が据っている。町の中の町です。武蔵野の原生林の名残をとどめている皇居吹上御苑から来る蜜蜂の蜜を採り、使っている町。商品の質は高く、店の質も高い。丁寧で愛想のいい店、とっつきの悪い店、どっちも江戸っ子、都会人のシャイネスからですね。そんなサービスの本質はカウンターバーとカウンター割烹にある。一人にしておいてくれ、そして気を配ってくれてます。京都の宮川町の南端の笹舟というカウンター割烹、息子さんが手伝うようになったので後継者できたね、とご主人に言ったら、「あきまへん、料理しながらお客さんと会話できまへん」と一刀両断。つまり、そういうサービスの商売がカウンター割烹の本質なのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、銀座から渋谷へ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コレオス。かつては109の上にあり、コレヒオといった。今は文化村通りからスペイン坂へ向かう通りのビルの上にあります。ここのマスターは山王ホテル出身。マティーニが独特。最初は何作ってんのかと思いますね。ジンをタンブラーでキンキンに冷やし、別に縦長のグラスをキンキンに冷やして注ぐ。強烈なキック。酔います。下手すると足腰を取られる。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;渋谷は変わりました。こんなに変わった町はない。道玄坂の上、円山町、神泉あたりが僅かに昔の名残をとどめています。静かさと賑やかさ、灯りの暗さと明るさが魅力的に混じっている町でしたが。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新宿は感じが変わりません。街道の宿場が繁華街になった面白さが依然として残っています。新宿御苑はかつての大名屋敷、西口公園はかつての浄水場であり、その前は幕府火薬製造水車場でした。大きな古い空間が、そのまま残されているからかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;バー、ドンキホーテ。角筈（つのはず）の交番近く。ここは区役所裏の「いないないばあ」の直系。いないないばあ時代の有名マスター末武さんの子飼いで、のちにスペイン料理店まで出した末武さんの実質コックをしていたマスターだから、食べるものが豊富。この藤田さんの得意な飲み物はジンリッキーです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こう見てくると、歩きやすいのはやっぱり銀座ですね。高層ビルがないから圧迫感がなく、ビル風が吹かない。この歩きやすさでは、神田もそうです。神保町、小川町、戦前からの建物や町の佇まい。坂があるから歩きも変化に富む。バーも、山の上ホテルのバーはシティホテルのそれとは思えない落ち着ける小さなバーです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;落ち着きたい。町歩き、バー歩きはそんな気分が底にあるのかも知れません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;生まれた堺の町をアメリカ軍の空襲で焼き尽くされ、隣近所も幼な友達も黒焦げになるか離散。逃げた先の神戸、魚崎でやっと落ちついた翌日にまた空襲。富山へ逃げ、敗戦で大阪へ。10才の春から夏に、転校5回。飢えながら、あちこちへ身を寄せて廻った流浪のトラウマが、擬似故郷を無意識に探しているのかも。たまたま仕事がロケーションと、そのハンティング、そしてシナリオハンティングであちこち廻ることが必要で、それが偶然いい町に出会い、あ、イイとこだな、と思う。それが町歩きに私を誘い出している衝動かもしれません。次からは町いろいろを書きます。まず堺から。これは戦争を語ることになりそうです。空襲、機銃掃射のむごさ、田舎への疎開、窮乏と飢餓を。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）III　仕事にまつわるいろいろ（その１）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-04/</link><pubDate>Thu, 01 May 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-04/</guid><description>&lt;p&gt;脚本家専業になるまでのことは、「大船撮影所いろいろ」で書きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テレビ部へ企画・脚本担当で移っての最初の仕事は、土曜ワイド劇場『声』（松本清張）の脚色でした。この枠はできたばかりで、企画も視聴率も安定せず、また一時間半（当初はそうでした）という長さは、テレビで育った脚本家には書き辛く、映画出身の脚本家には食い足りないという感じで、書き手が安定供給されず、そしてまた松本清張という作家は、その題材の独創性、そして日常リアリティの濃さを買われてテレビ化はされていたが、ミステリーが本質的に持つプロットの強さ、その独自のオリジナリティはテレビでは生かされず、当然ドラマとしていまいちになり、視聴率も取れないとされていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私の脚色では、プロットのサスペンス味を強く生かし、クライマックスの設定では原作にはない危機的状況を加えました。スタジオドラマにない映画的なそれが、テレビ的日常ドラマに慣れた眼には違和感があったのか、テレビ部長は「失敗作だね」と言いました。この評価はすぐにひっくり返ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;清張作品の日常リアリティの濃さは私も感じており、ヒロインの友人役に探訪リポーターとして活躍していた泉ピン子さんを推薦しました。みんな、「え？」って感じでしたが、これは当たりで以後女優として大きく伸びたのはご存知の通りです。ただ、ピン子さんは主演の予定だった倍賞千恵子さんとの共演を楽しみに受けたらしく、倍賞さんがスケジュールの都合で出られなくなったのはお気の毒の至りです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この作品は、視聴率が13%であり、10%前後で横ばいだった土曜ワイドとしては成功でした。清張作品としても、そのプロットの強さが初めて掘り起こされたのかもしれません。また、『声』という一字題名に『松本清張の』と付けたタイトルにしたのは、チーフプロデューサーの井塚英夫さんです。ワイドショー出身の町場感覚の鋭さに私たちはびっくりしましたが、以降、ドラマのタイトルでこのスタイルが流行し、いまや定番ですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;続いてすぐ、私は必殺シリーズで京都に呼ばれました。『必殺からくり人』第四シリーズの『富嶽百景殺し旅』です。早坂暁さんが創った、山田五十鈴をメインとする殺し屋メンバーの物語です。葛飾北斎が富士の絵に隠した手がかりから、殺す相手を探すという仕組みです。早坂さんが一話しか書けず、メインライター不在で、しかもメンバーたちのスケジュールがきつく、脚本家たちが一つの宿に集められ、ひたすら書く必殺史上有名な「観音ホテル合宿」に放り込まれたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;浜松の名刹が京都宿泊用の別館を作ったのですが、場所が岡崎のラブホテル街の真ん中にあったため、ラブホテル化してしまったそうです。そこへ、朝夕二食付きで監督や脚本家を泊め、一度行くと二本は書くノルマを課すことで、必殺シリーズの脚本家たちは大量の脚本を量産しました。アベックも宿泊し、その様子を見ていたこちら側の人間も「こんなところで書けない！」と怒って帰った真面目な人もいたそうですが、祇園まで歩いて飲みに出られたので便利な宿でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最初に書かれた作品は『本所堅川』でした。江戸時代の事実談を基に、浮浪児を一ツ目小僧に仕立て、空き屋敷に商人を呼んで怪談仕立てで脅して金品を奪うエピソードを、浮浪児たちが食べるためにやっていたという設定にし、悪御家人に悪用されるストーリーにしました。この作品はスムーズに通り、簡単に完成したとのことです。また、この作品が必殺シリーズのフォトグラフィ美を確立した名カメラマン石原興さんの初監督作品でもありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;すぐに、オカルト必殺シリーズ『翔べ！必殺うらごろし』が続きます。時代より早過ぎたといわれている、じつにユニークなもので、中村敦夫、市原悦子、和田アキ子などキャストラインも当時異色でした。だが、視聴率はしばしばシングルで、遂に必殺シリーズ打ち切りかどうかを賭け、続くだけ続けようと『必殺仕事人』が始まります。そして、これは84回、足掛け3年に及ぶシリーズとなり、必殺復活を果たすのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;チーフプロデューサーの山内久司さんに、「変えよう」という強い意志があったと思えます。一度見たら忘れられない強い現実感、殺す、という具象的行動のストレートさ、そのテクニックの奇抜さ。そういう時代劇は空前絶後で、しかしそのアルティザン性の濃さでマニアは深く存在したが、観客層の広さはなかった。そこを変えようとしたのではないか。殺しへの出発の音楽が、闘牛士の登場のようなファンファーレに変わり、そして若さのヴィヴィッドさ、色っぽさを持つキャストが加わる。脚本家や監督の顔ぶれにも変化をもたらしたかもしれません。現代のドラマの人や新人が増えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私についていえば、『仕事人』で担当した最初のものは、このシリーズ初の視聴率18%。中村鴈治郎、山田五十鈴両元締めの夫婦喧嘩、決闘沙汰というオイシイ設定の回だったせいもありましたが、必殺再構築に多少の貢献をしたようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;土曜ワイドは模索の時期、必殺は変革の時期に、それらと出会えたのが脚本家のスタートとして幸運でした。更に社員ライターで脚本料が安かった。確か必殺が6万、土曜ワイドなど2Hが12万。これは助監督が映画の脚本を書くと15万だったのに準じたのでしょう。この事は、数年やってる内に必殺の制作費が万年赤字だったのを消すほどのプラスを松竹にもたらした。必殺シリーズは制作費が安かった。殺し屋の話というので有名スポンサーが付きにくかったと山内さんから聞きました。もちろん高視聴率番組になってからは違ったでしょうが。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに私の資質からいうと、空想力はあるが想像力が弱い。アイデアがキャラクター、ストーリーに育ちにくく、プロットになかなか達しない。日常性の強い、アクチュアリティに基づくドラマだと、ことに苦しい。しかし、いわゆるレシ（物語）の虚構性に基づく時代劇とミステリだとプラスに働いたようです。つまり土曜ワイドと必殺に、私は受け止めて貰ったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、この二つの路線をやってるうちに、新しい分野にも加わるようになります。そのあたりは次回から。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）IV　シナリオを書いてみよう（その１）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-05/</link><pubDate>Sun, 01 Jun 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-05/</guid><description>&lt;p&gt;自分は映画ともテレビとも関係ない。観客として関わるだけだ。シナリオなんか書かない。書けない。関係ない。これが普通の感じ方、考え方でしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが普通の感じ方、考え方でしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、ちょっと珍しい仕事だな、と思うこともあるでしょう。例えばバーなんかで隣り合って、こっちがシナリオ作家だ、と判ると一瞬話がとぎれる。まじまじ見られてしまうときもある。話の接ぎ穂で会話を続けることになって、どんな仕事だろう、という感じの質問になる。ここでの代表的な問いはどんなか紹介しましょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;・セリフも全部書くんですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;・1時間のドラマは1時間で、30分のドラマは30分で書くんですか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;・どうして話を思いつけるんですか。不思議です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こう書いてみると、分かってないなと思ってしまうかもしれません。しかし、これ、かなりシナリオの本質に触れているんです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セリフはもちろん書きます。シナリオの大切な仕事です。この質問は実は、セリフにリアリティがあるかどうか、ドラマにリアリティがあるかどうか、というポイントを無意識に指摘しているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1時間のドラマを1時間で書けるわけがない。どんなに速筆でも。小津安二郎は2時間のシナリオを書くのに1年かけています。この質問は、ドラマを時間に感じているからこその質問だと思います。そう、ドラマは《時間》です。絶対的に過ぎていく時間こそがドラマのベースです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どうして話を思いつくか、発想するか。これはドラマには必ずストーリーがあると感じているからですね。思いもよらない展開は、小説にもドラマにも絶対必要です。プロットと呼ばれる、進行する止まらない展開。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;3つの質問が、シナリオ、ドラマというものの本質に無意識に触れている、迫っていることがお解かり頂けたでしょうか。まぁ初対面の会話からは、そこまで話は深まらない。映画やテレビドラマについての雑談、好き嫌いなどで盛り上がっておしまい。でも交流して会話が深まると、こちらも具体的な映画やテレビドラマの話をする。また自分のやった作品の話もする。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここいらで、関西、ことに大阪では必ず出る質問がある。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「それで、年、ナンボぐらいになりますか？」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ずばり、稼ぎのことになる。大阪以外ではあまりそこまで話題にしませんね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;何回かそんな目にあって、友人の大阪人にその話をしたら大いに笑って、そして「それでナンボになるんや」と来ましたね。これでまた大笑いになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、そこまでの会話に至っても、シナリオを書いてみたいなと言い出す人はあまり居ません。いや、殆ど居ない。むしろ、映画の話が深まったら、映画撮ってみたいなという人は案外多い。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なぜだろう？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;きっと、映画はカメラがあれば撮れるし、撮れば写る。人や物や景色が写る。しかし、シナリオを書くというのは結構技術を要するだろう。そう無意識に感じているからではないか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;書くという行為の中では、日記とか自分史などといった《記録》は取っつきやすいと、感じるものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;芝居を書くのもドラマを作るという点では同じですが、設計、プランニング、構成、シーン分けなどという取っつき難い技術が、シナリオには沢山要求されるように思えるのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;芝居という舞台に限定された表現、その限定の面白さ、目の前の生きている人間がドラマを演じる面白さは取っつきやすい面があります。いいキャラクター、いいドラマを発想できれば、戯曲はシナリオより書きやすいかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シナリオの難しさは、場所と空間、そして時間をどこへでも飛ぶことが出来るという、映画という表現の一番得な美味しい在り方。それを組み立てて、短いので30分、長くてだいたい120分から180分という《時間》の中に収めなければならない。つまり、時間と空間を超えられる自由と引き換えなのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、シナリオから映画を創っていくとき、現実を絶対に超えることはできません。その映画が撮られる現代という、同時代性を超えられない。映画は連続写真であり、フォトグラフィーやビデオというものは目の前の現実しか写せないためです。つまり、その時代のリアリティを超えることはできません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;例えばアニメですら、初期のディズニー、フライシャーの時代と今ではまったく違う。これもその時代のリアリティを超えていないのです。『イエローサブマリン』は『白雪姫』『バッタ君街に行く』の時代には作れなかった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ということで、次回はいかに《映画》は生まれたか、いかにシナリオが生まれたか、を語ってみましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、シナリオを書くという技術なんか要らないよ、カンケイないよ、という声にはこう答えましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ケータイやスマホで簡潔で面白い話を語る。それが技術なら、その技術の芯にはシナリオと同じ発想があるよ、と。また、映画やテレビドラマが面白く、深く見られるようになるよ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上が第一回です。なお、このシリーズは私がシナリオライター志望者に向けて書いた『シナリオを書く』（シナリオ作家協会発行）という本を、一般読者向けに柔らかく解きほぐしたものです。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）V　大船撮影所いろいろ（その２）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-06/</link><pubDate>Tue, 01 Jul 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-06/</guid><description>&lt;p&gt;入所するとすぐ、その時、クランクインしてた組に一週間ずつ付かされる。その最後が小津組でした。小津さんの第一回カラー作『彼岸花』。余談ですが、大船では監督を「先生」とはけっして言わない。「さん」です。助監督からスタッフの端に至るまでです。ここだけの善き習慣かも。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、初日。まずご挨拶。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「何年生まれだい」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが私への第一声でした。時代は昭和です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「10年です」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かしこまって答えると、&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「俺はもう監督になってたなぁ」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これが第二声。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;背が高く白いピケ帽と白シャツ、白ハンカチを欠かさなかった。汗かきでいらした。小津組の撮影はいつも夏。脚本に一年かけるから、そういうサイクルになる。ダンディという言葉がぴったり。男っぽくてさりげなくおしゃれ。そしてバチェラー。モテたでしょう。ユーモラスでシャイネスがあって言葉遣いが細やか。男好きのする男。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;朝が早かった。一番下っ端の見習いの私がステージに入っていくと、いつももう小津さんがいた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セットに胡坐をかき、身を低くしてじっとメインポジションを探っていた。あの有名なロウポジの姿勢ですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「お早うございます」と挨拶する。「お早う」と太い声が返ってくる。なんとなく居辛くなってつい表へ出てしまい、そこでスタッフを待つ。そんな毎日でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;撮影が始まる。ポジションが決まりカメラが据えられる。ベタと呼ばれる一番低い木の三角台か、もっと低い赤塗りの蟹足と呼ばれる金属台。畳に座る日本人をフルショットで撮るのにぴったりな小津ロウポジ。カメラポジションが決まると、助監督がさっと俳優の位置へスタンドインに入る。次に灰皿や湯呑のような小道具の位置を決める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「灰皿もうチョイ、山、鎌倉。湯呑、チョイ駅、チョイ東京」&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;セットでの指示は左右や前後が咄嗟には分からない。カメラから見てのそれか、被写体のそれか、必ず一瞬迷う。大船のメインステージは小山を背後に、大船駅に向かって建っているから、「山」「駅」「鎌倉」「東京」という方向指示の小津組語が生まれたのです。洒落てて解りやすい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東京の下町っ子、カメラマンの厚田雄春さんあたりの機知かも知れません。さて小道具の位置の決まりに、赤鉛筆で印を点ける。ファーストカットの引き（大抵はフルサイズ）のあと、人物への寄り（バスト）のカットバック、今度はどんでん（真逆）に入っての引き。そのときまた小道具の位置が変る。これは青鉛筆で印。だから助監督は全員、赤と青が尻合わせになった色鉛筆を常備していた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;続いて、テスト。数回から数十回。特に指示や要求が入るわけではなく、繰り返す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;率直に言って、「なんで？」と思いました。繰り返す意味が掴めない。NGでなく修正らしいが解らない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのセットに入る前に、そのセットのシーンを読み合わせするリハーサルが必ずある。これも小津さん、殆ど指示を出さない。ただ、疑問や質問のセリフで語尾が上がるのを嫌い、厳しく排除したらしい。文学座の俳優中村伸郎の回想に、そうあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『彼岸花』の読み合わせでは、浪花千栄子にただ一ヶ所、脚本に「無慈悲な」（ムジヒな）とあったのを、「ムヒドウな」と大阪の日常弁で言ったのを、脚本通りにと指示しただけでした。私には、田中絹代が浪花千栄子のセリフのたびに声を立てて笑うのが気になりました。浪花千栄子は脇役として売り出していた頃で、舞台で叩き上げた芸が光り、この京都の旅館のお内儀さん役もとてもヴィヴィッドで面白かった。田中絹代は主役クラスから脇役へゆっくりスライドしていて、そしてセリフの硬い人だったから、この読み合わせでも精彩を欠いていた。女優はそんな状況に敏感なのもので、笑うことで”格上”を示したのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんなことをしなくても、田中絹代は大スターであり、この作品でも存在感を示していたのに。（まあ小津さんと田中さんは、監督協会企画『月は上りぬ』の監督を協会長小津さんが田中さんに委嘱し、溝口健二が難色を示したトラブルがあったあとで、微妙な緊張を田中さんが感じていたのかもしれません）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、この小津初カラー作品は女優たちが実にキレイです。山本富士子、有馬稲子、久我美子、桑野みゆき。イーストマン・カラーを敢えて避け、地味な発色のアグファを使った厚田カメラマンの選択が生きた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;厚田さんは自称「カメラ番」。ルーペを小津さんが独占し、厚田さんは後ろでライティングを指揮し、止むを得ないときだけ覗かしてもらっていた状況を、ユーモラスにそう言ったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小津さんはいつも自宅から小道具を持ち込むのですが、この映画ではそれがトラック2台分。赤いものが好きで、このメインセットでも、ダンスクの赤いヤカンが印象的でした。このヤカンでは、のち大映で『浮草』を撮ったときに、カメラマン宮川一夫との面白いエピソードを生みますが、それは後ほどです。すべて小津さんの好みで統一され、なんせ、重役ではあってもサラリーマンである登場人物の家に、岸田劉生の絵が掛かっていたりする。扱いも保管も大変だった。畳の縁に至るまで自分で決める。普通の家ではまあ、黒か茶色か地味な模様、でも小津さんの好みはカラフルで料亭のようでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;10日間しかかからなかったので、ロケには行っていませんが、エキストラの衣装の色、遠景の家の物干しの干し物の色まで指定した、と聞きました。当時のカラーネガの発色はムツカシク、色温度計測計でライトの温度、太陽光の温度といちいち測っていました。ロケは10時から15時までぐらいしかできなかった！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いちばん驚いたのは、セットやロケの店の看板の文字をすべて小津さんが書いたことです。独特の書体ですから、同一人が書いたとすぐ判る。こうなるともう、リアリズムなんてモノじゃない。良き小市民リアリズムの人、なんて、イギリスなどで評価されているらしいけど、そんなものじゃない。すべてが自分の好みで統一されている快さです。ロウポジ、オールフィックス、カメラのレンズは50ミリ。フェイドイン、フェイドアウト、ワイプ、オーヴァーラップなどのオプティカル処理なし。カットバックの俳優の視点、お互い少し左右を見ることで見合ってる感じを出す、いわゆる目線も、殆どレンズを真正面で見る。まるでスチール写真のように。そして編集では、セリフの言いだしまで6コマ、言い終わって10コマで切る。風景のインサートショットはすべて7フィート。このリズムで、小津作品は進んでいく。小津リズム。このリズムの快さを、日常性と勘違いしてやしないか？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本質的にはライトコメディの作家です。エルンスト・ルビッチ（ビリー・ワイルダーの師匠）を好んでいたそうです。初期の作品は都会的な洒落たライトコメディを目指し、日常リアリズムによってペーソスが濃くなり、シリアスドラマの色が濃くなる。太平洋戦争後、シリアス味が濃くなりすぎたのを、脚本を野田高梧と組むことで修正。さらに原節子という良きマドンナ、笠智衆の質朴な男っぽさを得、『晩春』という新しい世界を創る。ヒロインはシリアスだが、脇がコミカルな味を出す。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;かなりハイトーンなそれを許されたのは、杉村春子と中村鴈治郎。キャラクターを決して逸脱しないユーモア味。それは、東宝での『小早川家の秋』の森繁久弥、山茶花究などの軽演劇の流れの人々の人工的な軽快さとはまったく異なるもので、小津さんはそっちはあまり買わなかったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一説によれば、東宝で撮ったとき、森繁、山茶花が小津さんの旅館へ挨拶に行き（宝塚撮影所でしたから）、テスト一発で決める演技をしますから、なんてあまりテストをやらないでくれ、と暗示したらしい。そしてステージ入りのとき、東宝のトップ俳優ってことで森繁氏が取り巻きも賑やかにやって来た。すると、セットで撮影中だった小津さんが、台本を膝に叩きつけて「このステージにうるさいネズミがいる！」と一喝。満場シーンとなってしまったとか、テストで例の森繁節で面白可笑しくやってのけたら、「いいねえ森繁さん、上手いねえ。おい、誰か、小津組の台本あげて」とさらっと小津さんに言われ、上げも下げもつかなくなったとか、そんな噂が大船へ流れてきたものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まんざら噂だけじゃなかったらしく、のちに『おったまげ村物語』（堀内真直作品）で大船へ来た森繁氏、ロケ地の車の中で「あの小津さんって人、どういう人？」と、製作助手との雑談の中で不快げに触れた、と言います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そもそも、小津組のセットは静かなのです。所長などのお偉方も静かに入ってくる。山本富士子の出演初日に、大映社長永田雅一が来たときも、静かに入って静かに見ていたのでした。（ドスの利いた貫禄の人でした。）それが映画人の神経でしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、そういう組だから、新入りの私なんかにカチンコなんか打たせてくれない。小道具だって岸田劉生の絵なんか触らせてくれない。スタンドインだってやらせてくれない。慣れた助監督しかできない。見習いの私は、もっぱらセットの壁の取り外しとか、庭木の移動とかに走り回っていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今、考えてみるといろいろ分かることがある。十数回に及ぶテストは、俳優を小津リズムに同調させていたのですね。このリズムは小津さんの中にしっかりとあり、例えば編集でのカッティングで、ラッシュのとき、編集の浜村義康さんに、「もう1コマ落とそう」とよく言っていた。俳優の演技のあるカットだけでなく、風景のカットでもそうなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この1コマ2コマという感覚は、編集技術者は判る。良きスクリプターも判る。そして大船の助監督は、シートマンという仕事でのスクリプターをやらされるので、判る感覚がある。実例で言うと、テレビでの映画のオンエアは、それがフィルム作品だと必ず音のずれが生じます。フィルムは光学印画だが、ビデオは電気印画だから、基本的に同調しない。シンクロナイズしない。そのずれはフィルムのフレームで言うとたった1コマなのですが、映画そのものに僅かな音ずれ、例えばロケーションシーンの、セリフのアフレコ（アフターレコーディング）での音ずれがすでに存在していたら、ずれは眼に立つほど大きくなり、俳優の喋る口と音が僅かに合ってないことが一般視聴者にも判るほどになる。これはもう3コマ4コマのずれになっているのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こういうコマ数にまで及ぶ細やかさが、小津リズムの根底にある。ライトコメディの味わいの上でも、その細やかさがあり、お住まいが鎌倉になってからは、どうしてもプチブルジョアの世界になってしまう。『早春』はすべて東京だし、どの作品も東京の設定は多いのですが、味そのものが「東京の現代」でなくなってしまう。それはご自分でも感じておられたのではないか。思い切ってコミカルな味を強くした『お早よう』は、子供のおならごっことか、人物も大泉滉、泉京子のチンドン屋夫婦とか、押し売り撃退の名人婆さん高橋とよとか、ほとんどハイコメディなのですが、でも、「現代」ではない感じがどうしてもある。恐らく、「次」を模索しておられたと思う。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「連句歌仙のような映画を」と言われたこともあるらしい。長短三十六句を連ねて虚構世界を作る歌仙は、日常性とハイさがともに存在し、そしていい句ばかりではなく、遣句（やりく）というルーティーンな句を作る巡り合わせになる時もある。人生そのものです。果たして、小津さんの「連句」映画はどんなものになったのだろうかと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まだ尽きませんが、小津さんについてはこれまでとし、大船話も今回は小津さんで終わっておきましょう。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）VI　町歩きいろいろ（その２）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-07/</link><pubDate>Fri, 01 Aug 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-07/</guid><description>&lt;p&gt;生まれて10才まで、国民学校（小学校をそう言ったのです）五年生まで育った堺のことを書きます。この話ではバーは出て来ません。子供時代ですから。そしてそもそもバーを見かけない。似合わない町、なのかも知れません。とても古い町、大阪より古い町ですから。宿院という古い盛り場のあたりは、アメリカ軍の大空襲で根こそぎ焼け壊滅したし、映画館などのあった遊郭に繋がる新開地・龍神あたりも黒焦げ地獄になって壊滅。東の、高野線堺東駅付近が焼け残って現在の盛り場ですが、歴史が浅い分だけ奥行きもない感じで、そもそもビジネス街もなかったのが今やっとカタチになりつつあり、都市としてまだ中心がない感じです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも大浜や浜寺の白砂の海岸を埋め立てて大工業団地にしてしまった、そっちが中心なのかも。このプロジェクトを推進した、戦中から戦後にかけての市長は河盛安之介。旧河盛家は宿院筋南側に大きな邸があったと記憶しています。フランス文学者河盛好蔵はこの家の出の筈です。歌人与謝野晶子（鳳晶子）の実家駿河屋（和菓子商）も、宿院山之口筋にあったので碑が残っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦国時代から港として栄え、堀割で囲まれた要塞都市として傭兵もいた面影は、今も旧港とそれに続く堀割、旧燈台に僅かに残っています。それと妙国寺から綾之町にかけて焼け残った商家など。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それと、人。背が高く堂々たる体躯、大きい眼。はっきり南方の中国人の血が残っている男性をかなり見かけます。京都から大阪、堺、と南下すると、はっきり北国から南国へ来る感じがあります。顔も、京都は貴人から町衆まで絵巻物に出てくる顔だし、大阪は男女ともに文楽人形の顔です。堺は中国南方系、ひょっとしたらポルトガル系まで父祖にいそうな顔つき、体つきと出会う。うちの祖父、父、叔父も眼が大きく、父と叔父は背が高かった。一番立派だったのは上の伯母の夫、石割松太郎（毎日新聞社員、文楽研究家、早稲田大学教授、「大衆文芸」というネーミングを創始、そのジャンル確立に努めた）です。写真で見ると巨眼巨躯、鼻眼鏡を高い鼻に掛け、まるで西洋人！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;うちの家系でもう1人演劇史に名を残しているのは、曽祖父の卯平、開口神社の門前に卯之日座という芝居小屋を経営。川上音次郎の『経国美談』『板垣君遭難実記』を日本で初めて舞台に掛けた。新派の発生の糸口となる公演です。この卯之日座は一、二度映画を観に連れて行かれた。もう映画館になっていて吉田家とはとっくに離れていたが、それでも顔パスで祖母らと入った。二階はまだタタミで枡席だったのを覚えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ご先祖話をもう二つ。ひとつはうどんすき「美々卯」。この本店は堺、宿院にあります。この「卯」という字はうちの家系から養子に入った人物から由来している、というのです。うちは代々「卯」を名前につけてた。私の代で途切れるのですが、父は一字名前が好みだったから私に「卯」とつけようとしたが、どう読むか困って「剛」にしたらしいです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう一つは、天誅組隊士のエピソード。うちの先祖の家へ大和挙兵で敗れた天誅組の、あちこちへ敗走するひと組が夜中に戸を叩いた。何か食い物商売だったらしい。身を清めたいから水を使わせてくれ、というのです。亭主は怯えて表戸を押さえて入れようとしなかったが、妻が気丈な人で気の毒がって入れた。傷で血だらけ泥だらけの身体を井戸水で洗い、そしてもう縄目を受けての刑死か切腹だから、と肌付け金を礼にみんなが置いて行った。その金で風呂屋の株を買い暮らしがしっかり立つようになった、という言い伝えがあり、事実、親戚筋に風呂屋があります。お金持ちで、ご当主は立派な顔と体形です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;美々卯と同じ宿院あたりの、昔からの名店を見てみましょう。蕎麦の「ちくま」。ここの熱盛り（あつもり）は、丼に卵の黄身だけを四、五個、熱い蕎麦に割り入れて掻き混ぜ、それで食べる珍しいものです。芥子餅（けしもち）の「小島屋」。薄皮、上品な甘さの小ぶりの大福の、その皮一面に煎った罌粟の種がまぶしてあり、風味のいいものです。昔は数軒あった記憶があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;余談ですが、泉州平野は罌粟の名産地でした。満州事変、上海事変、支那事変と繋がる中国植民地化戦争、その諜報・謀略の特務機関費を捻出するため、満州などでの罌粟栽培、阿片、モルヒネ製造販売を強行、その協力者としての河内の栽培・精製業者を軍はスカウトした、そんな歴史もあるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;千鳥最中。千鳥型の皮に濃い餡を入れた大型のもの。これも何軒かあったが、今もあるのでしょうか？大寺餅（おおてらもち）。宿院から山之口筋という繁華街へ入ると、突き当たりに大寺（おおてら）さんがある。その門前で売っていた甘い黄粉をまぶした餅。今もあるのでしょうか？大寺さんというのは開口（あぐち）神社で、神仏習合をはっきりかたちに残し、仏塔のある神社です。アメリカの空襲で焼けましたが、再建されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;焼けなかった寺社で有名なのは、この少し北の妙国寺です。明治初年、神戸でフランス兵を斬った土佐藩士が切腹した寺で、寺も名物の大蘇鉄も空襲で焼けずに残っています。このあたりから北が、空襲の災害に遭わなかった古い街です。そして南も、焼け残った有名な寺があります。南宗寺（なんしゅうじ）です。戦国時代からの名刹で、利休たち茶人や商人（貿易商）と縁が深い。旧堺を囲む堀の残りがその横にあった、いや今もあるはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;子供というのは神社や寺と縁のないもので、私はずっと入ったことがなく、そのまま現在に至っていますが、堺の子供なら知っている不思議な伝説と遺物がある。徳川家康はこの寺の傍で殺され、本堂の床下に密かに葬られ墓があるという伝説で、小さな墓石が本堂の床下に今もある筈です。大阪夏の陣のとき、本陣のあった平野郷から駕籠で大阪へ急ぐ家康を、向うから馬で来た後藤又兵衛が、垂れを降ろした駕籠を怪しみ槍でひと突きして通り過ぎた。家康は即死、南宗寺へ密葬され、あとの家康は替え玉。この伝説はうちの祖母も言っていたから、堺では常識でした。南条範夫や隆慶一郎が小説に書く前から、家康は替玉だ、と。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この南宗寺の傍に残っていた堀の南端（北端は知りません）は、我が家の前にあった。そして、西の方に、その堀と港をつなぐ堀があり、その西の端は旧堺港へ開いていた。この旧港は石を積んだ古い防波堤で囲まれ、外海（といっても大阪湾ですが）への出口があり、堤の端に燈台があります。それは明治に建った（あるいは建て直した？）ままの姿で、今も文化財として残っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;港から南へ、白砂のきれいな砂浜が広がり、大浜（おおはま）といいました。海水浴場になっていたので、子供の頃よく親に連れられたり、学校の水泳訓練で来ました。家から近く、弟をおぶった祖母と夕陽を見に来たり、夜、父とボクシングの試合を見に来た記憶もあります。水族館のアシカの啼く声が、夜、ウチまで聞こえてきたものです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その水族館、公会堂、そして潮湯という沸かし湯温泉のあるレジャーパーク、大浜公園は浜辺に隣接していて、松林や和風庭園もある広いスペースです。かつては、大浜少女歌劇団というのが公会堂で定期公演をしていたそうです。戦災からは焼け残りましたが、水族館は空っぽで、潮湯も営業できず、レジャーパークとしては戦災後、全く機能を失っていました。しかし、焼け跡の中で、ともかくのんびりできる場所でした。運動場では野球の試合もあり、アメリカ兵がよく散歩に来ていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この公園の北の外側から旧港（もう漁港になっていた）の傍まで、海に面した料亭が続いていました。芸者もいたらしく、谷崎潤一郎の大阪や神戸を題材とした小説などで、「大浜へでも行こうか」とシケ込む場所として出てきます。芸能人（桂春団治）なども来たらしい。当時の芸能ニュース記事に出てきます。漁港につながっているから魚がよかったのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この大浜漁港では、昔から毎夏、夜市が開かれます。魚のセリ売りが公開され、それがこの夏祭の名物です。町では蒲団太鼓と呼ばれる山車が太鼓を鳴らし、「ヨイトヨヤマッカ、ドッコイサノセエ！」と掛け声も勇ましく練ります。岸和田のダンジリ並みです。屋根の代わりに紅絹（もみ）の蒲団を重ねた風変わりな山車（だし）です。これがどこの神社のお祭りか、覚えていません。そもそも宿院というのが、どこかの神社のお旅所ってことですが、それがどこのか覚えていない。鳳（おおとり）神社＝大鳥神社というのが堺の南端にあり、立派な古社なのでそれかもしれません。（編集注：住吉大社のお旅所。宗教が苦手だったようです。）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鳳の海岸を羽衣といい、歌枕の羽衣の松、天女伝説と関わりがありそうです。その浜辺が白砂青松で有名な浜寺公園。明治の初年、殖産開拓で伐採されようとしたのを来合わせた元勲大久保利通が惜しみ残させた。それが今では、松林は辛うじて残っているが、美しい白砂の浜は失われ、海は埋立地のコンビナートが、大浜から浜寺の南の高石市まで続いています。浜寺の南は、これも古今和歌集と新古今和歌集の歌枕の高師の浜でしたが、コンビナートで失われました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦後の一時期、私は高石市（当時は高石町）に疎開していて、その浜でよく水遊びしたものです。浜寺も大学一年の頃、夜飲んでてタクシーの相乗りで水遊びに来、パンツ一丁で海に入った記憶があるから、まだ白砂の浜はあったのです。埋立による開発は、空襲で壊滅した堺の再興のためだったのでしょう。しかし、古くからの町の中心部が寂しいままで埋立地のコンビナートが巨大な今の堺、それが真の再興なのか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この事業を始めたのは、先に述べた河盛安之介市長。完成したのはその助役で、後任の市長になったヒトです。この二人が浜寺と高師の浜を消滅させたのは確かで、僅かに残るのは戦前、高級住宅地として開発された浜寺公園町、そして高師浜のお邸町のみです。大正モダンというのか、しゃれた家並がまだ残っている筈です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、旧堺を壊滅させたアメリカ軍の空襲。私の戦争体験の最大のものです。そのことを話します。昭和十九年（1944）、戦争が身近に迫った感じがし始めたのはその年からでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主食の米の配給が一日の必要量とされた1人3合に満たなくなり、玄米の侭で水で膨らませて炊きました。楠木正成が千早城へ立てこもって、北条氏の大軍と長期戦をやったときの炊き方とかで、楠木飯（くすのきめし）なんて勇ましい呼びかたでした。おかずもアンモニア漬けで保存したスケソウダラの切り身とか、大きいがスジばかりの農林ナントカ号とかいうさつま芋とかヒジキとかだった。四十二歳で軍需産業（松下造船＝のちの三洋電機）勤めで、徴兵からの絶対安全圏だった父にも、補充兵という臨時徴兵の召集があることになり、毎晩軍人勅諭を暗誦して覚えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主食の米の配給が一日の必要量とされた1人3合に満たなくなり、玄米の侭で水で膨らませて炊きました。楠木正成が千早城へ立てこもって、北条氏の大軍と長期戦をやったときの炊き方とかで、楠木飯（くすのきめし）なんて勇ましい呼びかたでした。おかずもアンモニア漬けで保存したスケソウダラの切り身とか、大きいがスジばかりの農林ナントカ号とかいうさつま芋とかヒジキとかだった。四十二歳で軍需産業（松下造船＝のちの三洋電機）勤めで、徴兵からの絶対安全圏だった父にも、補充兵という臨時徴兵の召集があることになり、毎晩軍人勅諭を暗誦して覚えていた。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっと怖かったのは、用紙不足でタブロイドの朝刊だけになった新聞（祖父以来とっていた朝日？地元紙？）に、女子供も戦え、という特集で、アメリカ兵は背が高いから背後から忍び寄り、睾丸を蹴って気絶させ、竹槍で突き殺せ、という囲み記事が絵入りで（モンペに防空頭巾姿の女性が、アメリカにそれをやる図解）載っていたのを読んだ時で、心底から怖かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;翌年二十年の春、大阪が最初の空襲を受け北の空が一面真っ赤になり、夜なのに本が読める明るさでした。あくる日、貧しげな老爺が袷に防空頭巾だけで大阪から逃げて来ました。すぐ傍の阪堺電車大浜線の踏切番小屋でうずくまっていて、黒山の人だかりだった。堺市民が初めて見る戦災被災者だったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして新学期に全学童に戦時疎開が発令されます。学校ごとの集団疎開と、各家庭ごとの縁故疎開。ウチは郊外の金岡（国鉄阪和線金岡駅・今の堺市駅の向こう）の豆塚に遠縁の農家があり、その納屋へ私と次弟が祖母と3人で身を寄せ、金岡国民学校へ転校。私が五年生のときでした。以降、二度の空襲による戦災で、神戸、富山県、敗戦での堺への帰還と、五年生の1年間に五度の転校です。学力や身体能力の発育に支障が出てしまいます。算盤が出来ない。泳げない。自転車に乗れない。対人関係がブツブツに切れて実らず、他人が怖い。転校するたびに摩擦やイジメを受けるからです。早生まれのチビでしたし。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その二十年夏、学校が休みに入る直前の7月10日、堺の空襲で最大の第三次空襲に遭います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;夜、空襲警報のサイレンで外へ出た私たちは、堺の空が真っ赤なのを見ます。凄まじい轟音と閃光。青白いサーチライトに照らし出されて、巨大爆撃機B29の編隊が飛んでいます。対空砲火はなく、迎撃する戦闘機もない。敵機の落とす照明弾が、更に青白い光を放ちます。間断なく聞こえる音は、敵機の落とす「モロトフのパン籠」と呼ばれる焼夷弾の収束体の落下音です。鋼鉄の六角の筒状の弾が束ねられた物が投下され上空でバラける。そのザーッザーッという散乱落下音なのです。おそらく黄燐ではなく、原始的なナパーム弾だったのでしょう。火力は恐るべきもので、中の液体を1滴でも受けたら骨まで燃え抜けると言われていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;翌年早々、祖母と弟の3人で家の様子を見に出掛けたときは、珍しい光景でも見られるかなぐらいの気分でした。ガソリン欠乏ゆえの木炭バスももう走っていず、家へはいつも徒歩でした。反正、天皇御陵を越えて南海電車高野線の堺東駅、そこまでが郊外で、そこからは市内です。踏み込んだ途端、そこはもう被災地で、焼け跡が煙を上げていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;中心地の宿院あたりに達すると、一面の焼野原で被災者の群れが郊外へ脱出し続けていて、そのうちに焼死体が見えてきたのです。最初は人間に見えなかった。材木の焼けたのだと思った。人間だと分かってからは恐ろしかった。それは苦悶する形のまま、真っ黒に燃え切っていた。縮まって小さくなっていた。そして脂でギラギラ光っていた。恐ろしくて飛び回って逃げ、見ないようにして避けて歩いた。しかし、まだ火気が熱く残っている上を、それを見ないよう避けてては歩けないのです。そして、阪堺電車大浜線の、あの大阪の被災者を見た踏切を越えた時、家が跡形もなく焼失したと分かりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;黒煙を上げて、焼野原が拡がっていました。唖然と見回した途端、今までとは比べものにならない恐ろしい焼死体の山を見ました。大浜線は南海電鉄龍神駅を鉄橋で越えていて、上が大浜線龍神駅になっている。そこへ登る階段の下が折り重なって焼け死んだ死体の山で覆われていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あとで聞くと、駅向うの龍神遊郭の人たちが陸橋の下のトンネルに逃げ込み、蒸し焼きになったらしい。トンネルへ入り切れない人や、こちら側の映画館街の人たちが階段の下へ避難した。その死体の山だったのです。もう見慣れた黒焦げの死体の下に、焦げてない死体があった。鮮やかなオレンジ色が異様でした。ひと目見てすぐ眼を逸らしたが、髪を振り乱した女の死体が多かった。みんな、全裸だった。焼夷弾の高熱が激しい旋風を起こし、衣類を吹き飛ばしたのですね。トタン板が、焼け焦げた木に飛んできた形のままで引っ掛かっているのをいくつも見ましたから。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;陸橋のトンネルの中は天井まで死体らしき山で塞がり、黒煙を上げていて見通せなかった。その時、背後で鋭い泣き声が上がり、振り向くと、また別の種類の死体の群れを見たのです。大きな堀割が流れているその岸に、水に晒されたような不気味な青白い肌の、腹が異様に膨らんだそれが並んでいました。火に追われ、堀割に飛び込んで溺死した人たちだったのです。水を呑んで、腹が膨れ返っていたのですね。その一つに取りすがって、女の人が泣いていました。振り絞るような号泣。慟哭、というのはあれをいうのでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その泣き声に突き動かされるように、私たちは歩き出しました。大浜の方へ逃げてないかと、父母とまだ幼児の三番目の弟を探しに。そして別な堀割をそっちへ渡る橋の上で、弟をおんぶして群集に混じってやってくる母と出会ったのです。下半身は泥まみれで、上半身は首までズブ濡れの。家に焼夷弾が落ち、消火しながら父が先に逃げろというので逃げたが、火と煙で逃げ場を失い、その橋の下の伝馬船へ乗り移ったが、次々に人が乗り、船がだんだん沈み、首まで浸かったところで夜が明け助かった、というのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;父を置き去りにしたと祖母が泣いて母を責めていたら、誰かが疎開前に私の行っていた英彰国民学校の講堂が焼け残り、被災者の救助をしているらしいと言ってくれ、そこへ向かいました。そこに集まり、手当てを受けている被災者の中を呼び廻っていると、父が出てきたのです。両眼は巴旦杏のように腫れて塞がり、両手は火傷の水ぶくれだらけでした。懸命に消火していると火勢で熱風が凄まじい旋風になり、呼吸も出来なくなったので夢中で走り、堀割に飛び込んで助かったというのです。父は泳げたのです。そしてそこで、私たちは別に住んでいた祖父と出会います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;祖父が助かった話はとても奇妙なものでした。逃げるうち、親とはぐれた子供が付いて来て離れず、仕方なくおんぶして逃げていると背中からその子が「あっちへ逃げろ、こっちへ逃げろ」と指示。その通りに火と煙の中を逃げ、助かったというのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それから数日間を、父の会社の寮になっていた大浜の料亭が被災社員を収容する臨時施設になっていた。そこで暮らしました。自宅の焼跡の井戸や防空壕に埋めた家財を掘り出していて、近所の人たちや友達の死を生き残った人から知ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;記録によれば、この第三次堺空襲の死者は二千人、重軽傷者は1千人、消失戸数は二万戸、被災者は七万人でした。総戸数の4割と総人口の3割が被災し、堺は壊滅しました。たいした軍需産業もなく、軍施設も金岡の方に連隊と陸軍病院、それも精神病院、そして捕虜収容所があるのみでした。トラックで作業に出される捕虜たちと私たちは笑顔で手を振り交わしていましたっけ。そんな町がなぜ徹底的に焼き尽くされたのか。大阪の軍需産業の労働者が多く住んでいたから、だそうです。戦争でなく虐殺です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このあと私たちは、神戸本山の軍需産業の社長だった伯父宅へ一時身を寄せました。そして、魚崎で借りた家に移った途端、また空襲に遭います。女子供まで狙うアメリカ機の機銃掃射にも。それは神戸の話になります。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）VII　仕事にまつわるいろいろ（その２）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-08/</link><pubDate>Mon, 01 Sep 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-08/</guid><description>&lt;p&gt;テレビ部へ移り、企画と脚本専属になった最初の脚本の仕事は土曜ワイド劇場『声』ですが、助監督時代とまたがっている仕事に『ご存知！女ねずみ小僧』があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プランニングでは、メインライター加藤泰、メイン監督工藤栄一だったのですが、すったもんだのクランクインの揚げ句、第二話から突然私が脚本に駆り出された。小川さんは美しい盛り、セリフも動きもキレが良く、アシスタント役の田中邦衛さんの役がなぜか役者が変わり、なんと三国連太郎さんがおいでになった。アシスタントではなく黒衣（くろご）である、という解釈をなさり、ホントに歌舞伎の黒衣姿で登場、大いにコミカルにおやりになるのだが、市川昆の映画『青色革命』のオカマ青年で大好評で、それのイメージがあるのか、ハッスルするほどオカマになり、小川さんたちから疑問が出たようです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;訳の分からない脚本直しが行われたり、小川さんの女中役の野村昭子さんや町方同心役の菅貫太郎さんが降りた（降ろされた？）り、トラブル続きだったのが安定したのは、小川さんと仲良しの井上昭監督、役者扱いの上手い大ベテラン松林宗恵監督が来てからで、以後私は第十八話から最終回第三十一話まで5本、まあ、メインライターになってしまいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仕事は楽しかったですね。こういうコミカルで御伽噺のタッチの作品は、アイデアが勝負だから楽しい。またテレビ部へ移って早々、あるプロデューサーがＮＨＫへ紹介してくれて『早筆右三郎』という、江守徹がメインの瓦版屋のシリーズを書かせてもらいました。これも、新聞記者と編集部と販売店が一つになったようなグループの話で、楽しく書けました。鎌倉の縁切り寺を使ったのと、滝沢馬琴もエッセイで取り上げているＵＦＯを題材にしたのと二本です。縁切り寺のはシリーズで一番視聴率が良かったとかで、原作者の小山内美江子さんから、「ツイてる！」と握手された記憶があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;テレビ部での仕事へ戻ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『声』のあと、『顔』『犯罪広告』『紐』『種族同盟』と松本清張作品が続き、このシリーズに客が付き始め、視聴率20%に迫りだしますが、『声』で原作にないクライマックスを仕組んだのが枷になって来たのには苦労しました。松本清張の味と微妙に離れると感じたのですが、土曜ワイドという枠の性質上、局からはそれが要求される。言わば二律背反的悩みです。それと同じ苦労をしたのは、戸板康二の中村雅楽シリーズです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歌舞伎の老優を主人公にしたユニークな連作で、これは松竹ならやれるんじゃないか、と企画したのですが、脚本作りは苦労しました。原作はすべて短編で、二時間ドラマに足らない内容です。そこで事件の出だしは『車引殺人事件』『車引』の舞台で、牛車を割って出てくる大ガタキの時平（しへい）が、車の中で死んでいた。それを使い、全体のストーリーは長編『松風の記憶』、クライマックスとラストは『鷺娘殺人事件』で作りました。題名をどうしようか、と思っていたら、またあの井塚英夫プロデューサーが大技をふるいます。なんと『名探偵雅楽登場！車引殺人事件つづいて鷺娘殺人事件』。あっ、と驚きましたね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;えっ、と不安になったのは、舞台で殺人が起こった話に劇場は貸せない、と歌舞伎座が急に言い出したことでした。これは、新橋演舞場が近々取り壊して新しい劇場にするから、と貸してくれて解決しました。次に、あっ、と私も驚き、原作者の戸板さんが驚喜したのは雅楽役のキャスティングでした。すでにテレビの一時間ドラマとしていくつか作られ、雅楽役は市川中車さん、小納戸容（こなん・どいる）のペンネームで著作もあるこの人と中村芝鶴さんがやっていたのへ、中村勘三郎（十七代目）という大看板を持ってきたのです。バリバリの現役の役者、それも大スター過ぎるので、原作と微妙な誤差がありましたが、結構な雅楽でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;可笑しかったのは、これだけ時間かけて撮影して、たった一回、二時間放映するだけか、とご不満なご様子でしたが、テレビの視聴率1％は東京だけで6万世帯、20％だと1400万人以上が見ると聞かされると、俄然張り切り始められたことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「勘三郎さんとの共演、ということで、相棒の新聞記者に近藤正臣、刑事に山城新伍、と主役クラスが出てくれ、殺される悪役に伊藤雄之助、犯人役で鷺娘を踊りながら死んで行くヒロインに波乃久里子、実にいいキャスティングになりました。もうひとつ可笑しかったのは、雄之助さんが時平役で殺され、急ぎの代役を雅楽の勘三郎さんがやる、という設定の、その青隈の化粧が雄之助さんの方が立派だ、と何度もやり直させ、しまいには出るのがイヤだ、と駄々をこねだしてプロデューサーが閉口した、いかにも勘三郎さんらしい、ほほえましいエピソードもありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この作品は好評で、すぐ次が作られます。「名探偵雅楽再び登場・お染宙吊り殺人事件つづいて奈落殺人事件」。これは短編の「奈落殺人事件」をメインに、トリックを創ってプロットも創ったのですが、やはり「松風の記憶」のような太いストーリーが入らないと、短編だけでは骨格が弱くなるようです。これも新橋演舞場でその奈落を使って撮りましたが、劇場内の理髪店の椅子と鏡を使って右と左を取り違えるメイン・トリックがあり、これだけは演舞場になく、歌舞伎座の理髪店で撮った記憶があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは勘九郎さん（五代目）が出演しました。立女形役に中村雀右衛門さんに出て貰えと勘三郎さんが言ったので、マネージャーさんが行ったら出渋って、悲劇的な母の役があるのを、この役だったら出ると言い、マネージャーさんが呆れ顔で「母だと出るんだそうです」と報告。女形のヒトだからＴＶドラマでも女の役をやるつもりだったらしい。いかにも歌舞伎のヒトらしい逸話ですね。あるいは拒否反応の微妙な表示だったのかも。なお、その母の役は淡島千景さんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;第三作『名探偵雅楽三度登場・幽霊劇場殺人事件』では、遂に新橋演舞場が取り壊され、岐阜の瑞浪（みずなみ）にある古い芝居小屋を使いました。原作が『加納座実説』という子役の幽霊が出る地方の劇場のお話です。『グリーン車の子供』という名短編も使っています。この3作で雅楽シリーズはおしまいです。劇場が使えないのではしかたがない。このシリーズは歌舞伎を知らないと書きにくい。原作の使い方、じつに難しいのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、必殺シリーズは次の新しいシリーズの始動が始まっていました。この『新・必殺仕事人』には山田五十鈴さんの三味線屋おりくの息子として、中条きよしさんが出ることになり、新メンバーが揃い踏みになります。それは次回に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、硫黄島で戦死したオリンピック馬術金メダリストのバロン西を描いたドラマで、当時染五郎だった松本幸四郎さんが主演したときのユーモラスなエピソードなどもあります。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）VIII　シナリオを書いてみよう（その２）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-09/</link><pubDate>Wed, 01 Oct 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-09/</guid><description>&lt;p&gt;映画は演劇と似ています。演劇には戯曲があり、映画にもシナリオが似ているのも似ています。戯曲にもシナリオにも必要なのは、ドラマです。ドラマが無ければ映画も演劇も始まらない。では、ドラマとは何か。対立です。激しい対立が必要であり、矛盾が葛藤し、激しい対立を生み、それが解決することで観客が解放を味わい、心が浄化される。この浄化をカタルシスと名付けたのが、アリストテレスというギリシアの哲学者です。元々の意味では、カタルシスとは吐いたり下したりの生理作用なのですが、ドラマによるカタルシスは心の静寂浄化を言い、人の心に溜り、内在する苦悩や行き詰まりを解放浄化する心の作用に置き換え、それが演劇によって果たされると言いだしたのが、アリストテレスです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現代ギリシア人も難しい行き詰まりに直面したら、「ドラマ！」と叫ぶそうです。つまり、現代でも生きている言葉なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;行き詰った状況。それを打開するのは、人間です。人間が行動して、状況を越えるしかない。そしてその時、人間も今までの自分を越える行動が必要です。状況がハードであればあるほど、人間の行動もハードでなくてはならない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;アリストテレスがドラマのサンプルとして挙げたのが、ソポクレスの『オイディプス王』です。テーバイの王ラーイオス、妃のイオカステーに子が生まれる。神の予言で、その子が父を殺し、母を姦すると知り、王領牧場の羊飼に捨てさせる。羊飼はその赤ん坊を憐れみ、隣のコリントスの王領牧場の羊飼に渡す。子のいなかったコリントスの王夫妻は、その子を我が子として育てる。それがオイディプース。そして、未来を占うアポロンの神託を取りに行き、父を殺し、母を姦し子を産ませると知り、出奔。旅の途中で、馬車を突っかけてきた傲慢な男と共を殺す。逃げた一人を残して、そしてテーバイへ来る。人面獣体の怪物スピンクスの災いを受けているテーバイを、スピンクスを退治して救い、旅先で死んだ王ラーイオスに代る王に選ばれ、妃イオカステーを妻とする。ところが疫病がまたテーバイを苦しめ、神託が王ラーイオス殺しが罰せられていないと告げる。良き王であろうとするオイディプースは、犯人探しを始める。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ドラマはここから始まります。そして遂に羊飼い、コリントスからオイディプースを迎えに来た使者、イオカステーの証言から、恐ろしい真実が明かされます。イオカステーは自殺し、オイディプースは真実を見抜けなかった我が眼を刺し、テーバイを出奔します。けがれた罪人として、世の見せしめとしてさすらうことを選んでいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;神話では、オイディプースはテーバイから追放されるのですが、ドラマでは見せしめとなり、さすらうことを自分で選びます。激しく、強い性格の人間の状況と運命を超える激しいドラマになっており、それはオイディプースの勇気ある強い性格から生まれ、観客に感動を、開放感を、心の浄化をもたらしています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これがアリストテレスの「カタルシス論」であり、観客が浄化によって開放感を得るという考え方です。悲劇やシリアスドラマだけではなく、これは喜劇にも通用する考え方です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;喜劇」として有名なアリストパネスの『リュシストラテ（女の平和）』は、「オイディプス王」の10年ほど後に作られています。アテネ連盟とスパルタ連盟の戦いに、ギリシア全土が巻き込まれる。アテネのリュシストラテという女性が、戦費を納めてあるアクロポリスに女たちを率いて立て篭もり、戦争をやめないとセックスさせない、国庫の金も使わせない、と宣言。スパルタの女たちも加わり、とうとう男たちは屈伏、平和が来るというお芝居でありながら現実に起きている戦いへの抗議、という芯が通っていて、これを書いて上演したアリストパネスに身の危険が及びかねないアクテュアリティーが重なっています。アリストパネスの勇気は大したものです。歌あり、踊りあり、セクシュアルな笑いあり、お芝居としてもスグレモノだったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本では俳優座が劇場のこけら落としに上演し、好評を博しましたが、東山千栄子のリュシストラテではお上品かつお年で、これはクリスチャン・ジャックが中篇ですが映画にしていて、監督の恋人だったマルチーヌ・キャロルが代表作『浮気なカロリーヌ』に劣らないエロティシズムを発揮しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、このように優れたドラマは良きカタルシスを生み、観客を人間的に解放するという、アリストテレスのドラマ定義はじつに優れたドラマの本質を捉えていて、映画やテレビドラマも本質としてこれを持っています。ただし、演劇とは表現が異なり、手法も異なります。演技という表現自体の芯は同じですが、表現する《質》《リアリティー》が異なり、シナリオは戯曲とは異なり、表現者であるスタッフ、キャストの《方法》も大きく異なります。それを述べていきましょう。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）IX　大船撮影所いろいろ（その３）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-10/</link><pubDate>Sat, 01 Nov 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-10/</guid><description>&lt;p&gt;入所した翌年、小林正樹『人間の條件』三、四部（通称・第二部）に付いています。以後、小林さんが退社する『怪談』までずっと付くことになり、小林組になるわけです。だから、小津安二郎のあとの大きな主題は小林正樹なのですが、小林作品は準備と仕上げ、そして撮影で時間のかかるものばかりだったので、語るとなると分量が多いのです。で、その合間についた監督たちと作品について、まず語りましょう。私は助監督運がいい、というか、いい作品に恵まれました。ざっと思い出しても、川頭義郎『有楽町0番地』、中村登『いたづら』『いろはにほへと』、高橋治『彼女だけが知っている』、篠田正浩『乾いた花』、井上和男『紺碧の空遠く』、野村芳太郎『どんと行こうぜ』『拝啓天皇陛下様』、松山善三『山河あり』、木下恵介『春の夢』、斎藤耕一『約束』『旅の重さ』などに付いています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『人間の條件』三・四部に付く前の作品から触れましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;川頭義郎『有楽町0番地』。これは、そのとき東京都が皇居の外堀を埋めて、高速道路を載せた有楽町フードセンターを造った、そのＰＲを兼ねた大都会トーキョーのエピソード集のライトコメディで、木下恵介のお弟子だった川頭さんと松山善三さんが、おなじく弟子だった勅使河原宏さんと組んで脚本を作った。松竹としては、華道界へ前売券を流す狙いもあったようです。勅使河原さんが実際に劇映画にタッチした最初であり、現場へよく顔を出して演出をサポートしたり、松竹マークの富士山をパロディ仕立てにしたいとか、挿入のテレビＣＭ（当時珍しい試みだった！ニッカウィスキーでした）を作るとかで特撮部（タイトル撮りしかできなかった）に入り浸ったり（大庭秀雄組の予告編タイトルを撮りにきた大島渚にとうとう追い出された）その熱中ぶりに夫人の小林トシ子さん（木下組出身の女優で高峰秀子の相手役を『カルメン故郷に帰る』でやった人）が、「珍しく熱くなってるわよ」と喜ぶほどだったが、なんと、とうとう出演までしてしまった。それも、瞳麗子相手に主役の巷の詩人を。もともとは南原宏治がやることになってた。ところが『人間の條件』一・二部の秋田小坂鉱山ロケが延びに延び、南原さんが帰って来ない。いや、新劇俳優の大物や脇役の大物が帰ってこないので、映画界演劇界が恐慌を来たしてた。その結果、川頭組では、急遽勅使河原さん出演となった。当時としては驚くべき決断のようですが、松竹としては作品自体タイアップだし、これで更に華道界へ前売りが増える、と踏んでた節がある。勅使河原さん自体がノーブルなキャラだったからハマっていたし、ご本人もちょいとやりたい色気があったのかも。可笑しかったのは、当時はロケというと見物人が大群衆で、さすがにあがった勅使河原さんが川頭さんに「友情があるなら全部どけてくれ」と言い出し、われわれ助監督や製作陣が人よけに走り廻りましたっけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この映画は脚本の段階から、わけがわからない」という評判でした。しかし、今見たらそのごった煮ぶりが新鮮でおもしろいのではないか。純情対世俗という形のライトコメディで、諷刺も利かせていて、スラップスティックもある。クライマックスは公開形式のテレビショウ。作られた美談の嘘をヒロインが暴露し、大騒ぎになる。観客が怒りだす。そのアップを、エキストラから選んで即興で叫ばせた。おばあちゃんエキストラに司会者三國一朗へ「ヘッピリ腰！」と叫ばすシーンがあり、当然うまく行かず、助監督の私がトレーニングして本番に臨んだところ、カチンコを叩いた私が、同時にトラックナンバーをコールするのに「ヘッピリ腰！」と叫んでしまったのです。入れ込んでいたのと、徹夜続きの撮影でカーッとなっていたのですね。スタッフ、キャスト、三百人の大エキストラが大笑いになり、撮影所内でも話題になったらしく、大庭秀雄監督が私を見かけて、『大庭組』助監督だった大島渚氏に、「あの子かい？」と聞いたそうです。こう書いててもいまだにかーっと熱くなる。まあ、これは一過性の恥ですが、この場面ではチーフ助監督の斉藤正夫さん（のち監督）や、かの有名な松尾食堂の看板娘・松尾若菜さんまでアップでセリフを叫ばされ、のみならず、頭の方のフードセンターロケではスタッフが客として出さされ、私も回転焼の焼けていくのを見て生唾を呑む客をやらされ、大きく写っております。これは消えない恥ずかしさで、テレビ放映がありはしないか、ひやひや物です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地味な作品で、私たち若いもんには食い足りませんでしたが、武満徹さんがのちに回想（『人は大切なことを忘れてしまうから＝大船撮影所物語』）で、「いい映画だった」とお気に入りだったので驚きました。音楽を担当していたこれが武満さんとの最初の出会いでした。まだ世に出たばかりで、微かな憂鬱さと時折の微笑が印象的でしたね。高知ロケがけっこう大がかりで、高知駅でＳＬを発着させ、駅そのものに木の壁などを作り足して大オープンセットに仕立てましたっけ。可笑しかったのは、作り物のポストに本物の手紙や葉書が投函されたこと。慌てて投函し直しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、野村芳太郎『どんといこうぜ』。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは、津川雅彦松竹入社第一回作品です。日活『狂った果実』で新鮮なデビューぶりを見せた彼を、松竹が引き抜いた。まあ、川島雄三ら監督、月丘夢路、北原三枝、三橋達也、大坂志郎ら俳優を引き抜かれた仕返しであり、津川氏にしてみれば、日活ではつまりは石原裕次郎の二番手、兄長門裕之の二番手だ、というひそかな認識があったのかも知れません。この作品は、スラップスティックをまじえたライトコメディで、脚本には大島渚も加わっています。谷川俊太郎さん作詞の主題歌も、脚本に載っていましたっけ。津川さんは、この作品とこの後の殺し屋たちのお話の二本だけ、野村監督と組んでいます。（この中の、マッサージ師を装う殺し屋二人組に、私が伊藤雄之助さんとコンビで出演が予定されていました！）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この作品から野村組のカメラが川又昂に変わる、大島さんの推薦です。大島さんは監督になる、という目標に的確に進んだ人で、この1年はその実現への第一歩だったようです。ちょっと触れておきましょう。まずこの春、新人俳優紹介の短編映画『明日の太陽』を脚本・監督しています。シャレた語り口のもので、カメラ・川又昂、美術・宇野耕司ともにのちの大島組メインスタッフ。また、日活から松竹へ移るのにアメリカ留学（なんの留学か判りませんが）を経た津川雅彦の帰朝シーンが入っています。河津祐介、桑野みゆきともども、のちの大島さん作品のメインキャスト・メンバーです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;役者としてどんなものか偵察したのでしょう。そしてこの後、助監督室脚本集に書いた『月見草』が映画化されます（岩城其美男監督）。この脚本集は定期的に会社の費用で出版され、大島さんの第1作『愛と希望の街』第2作『青春残酷物語』の初稿もここに載ったものです。ここに載ると社長の城戸四郎や撮影所の人たちがみんな読み、脚本料も少しだが出た。ここから山田洋次、篠田正浩、高橋治、吉田喜重、田村孟、石堂淑朗、山田太一、広瀬襄、田向正健、三村晴彦らが輩出しています。このオリジンは大島さんや高橋さんたちが始めた『七人』という同人誌ですから、大島さんの功績は実に大きい。そして大島さんは、この年の暮れ『愛と希望の街』で遂にデビューする。ところが、カメラは川又さんではなく、木下恵介のカメラマン楠田浩之さんだった。川又さんは、『人間の條件』三、四部に撮影助手チーフとして掴まったのです。一、二部はにんじんくらぶ＋歌舞伎座プロで外部作品でしたが、今回は大船作品として大船でインした。名カメラマン宮島義勇に付けて学ばせる、大船百年の計の為だ、と所長が決め、大島さんの頼みを聞いてくれなかった、とか。（大船は百年持ちませんでした）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この三、四部の助監督に、私は付いた。異例の五人編成となり（通常は四人）、もうインしてたのに急遽付いた。北海道長期ロケが大変、というので。事実、大変でした。それはまた後ほど。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）X　町歩きいろいろ（その３）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-11/</link><pubDate>Mon, 01 Dec 2008 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-11/</guid><description>&lt;p&gt;堺で焼け出され、私たちは神戸の本山の軍需産業社長をしてた義理の伯父邸へ、一時身を寄せます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;六甲山麓、芦屋に続くお邸町、白く明るい土地で空襲で黒く焼け爛れた堺と別天地でした。谷崎潤一郎も住んでいたところです。もうその頃は、確か岡山の方へ戦争を避けて移っていた筈ですが。防空壕から掘りだした僅かな家財を、馬力（ばりき）と呼ぶ馬が曳く荷車に積み、私たちも乗り神戸へ向かった。その途中見た大阪の荒涼とした焼跡は、いまだに眼に残っています。御堂筋の南端の難波の高島屋の前から、北端の梅田の阪急百貨店が見えた記憶があります。小雨の降る御堂筋に人影はなく、馬が一匹、腹の傷から垂れた腸を引きずって、ぽくぽく歩いていました。まったく同じ光景を野坂昭如が小説で描いています。偶然同じ時、同じ馬を見たのか、それとも、戦時下の庶民の輸送手段は馬力しかなく、町々の馬力屋には必ず馬がいたからか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;車なんかガソリン払底で走っておらず、乗合バスも木炭車だった。その程度の国力で、この国と軍はこの戦争を始め、国土と非戦闘員の国民を黒焦げにし、若い人の命を特攻などという消耗戦術で散らさせ、愚かしい終りかたでしか戦争を終わらせられなかった。国民はこのあと凄まじい飢えで草まで食い、避難所もボランティアも免税も補償もない時代を生きた。私も、ちゃんと家に住み、正規に学校に通えるようになったのは三年後、新制中学二年になってからです。本山での生活は、そんな中でのきわめて僅かな安穏さでした。住居も快適、食うものもあった。本山国民学校というお坊ちゃん学校へも僅かだが通い、海浜でも遊べた。しかし、戦争は容赦なく襲って来ました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;京都もそうですが、地質が京阪神独特の花崗岩質で、地面が白いのです。ことにこの本山のお邸町は真白でした。家並みも立派で、転向した本山国民学校もコンクリート造り。堺や大阪の空襲などが別世界のようで、その話をしてやると教室のみんながびっくりする、そんな長閑さでした。海へも近く、歩いて浜へ出て水遊びができました。でもあとで知りましたが、神戸市自体はもう何度も空襲を受けていた。本山でも、アメリカ戦闘機の機銃掃射を受けました。下校する子供の列めがけて急降下してきて討つのです。伯父の邸でも、庭に居た私と祖母、縁にいた伯父、たった３人の「一般市民」、それも女子供に向けて機銃掃射するのです。戦争じゃないですね。虐殺です。アメリカ兵が笑っているのを見た子供もいました。野牛と原住民を殺戮しながらアメリカ西海岸へ達した、ワスプのインディアン狩りの太平洋版です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さていつまでも伯父の邸にも居られないから、すぐ近くの魚崎に家を見つけ転居。学校も魚崎国民学校（小学校）に転入。ここもコンクリート造りの立派な校舎で、せんだっての阪神大震災のときに避難所として新聞に載っていた。懐かしかった。だが、一度も登校していません。転入手続きしたその夜にまた空襲があってまた家が焼けたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;木造の小住宅ばかりでしたから、たちまち家が燃え始め、水をかける父に母が、早く逃げよう、今夜は大人数なのだから、と叫ぶ。そう、父母、祖父母、まだオンブの幼弟を入れて子供３人、３世代、計７人。確かに大人数でした。頭上から焼夷弾が落ち続け、四方八方で火の手が上がる中を山の手の方へ逃げました。焼夷カードと呼んでいた銀色の紙片が振りそそぎ、地上近くで発火するのを手で払いながら。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;お邸町へ入った途端、国民服に鉄兜の男たちが大手を拡げて立ち塞がり、怒鳴りつけてきました。『隣組』という町内会組織の役員らしい。お前らは消火活動をしないで、敢闘しないで逃げて来たな、戻れ、戻って敢闘しろ。父も母も敢闘したけど、家が燃えてしまったのだ、と言うのですが聞き入れない。だが、被災した人々が続々逃げて来て、遂に数の力で空疎な愛国者たちを押しのけた。私たちは暗い方へ暗い方へと逃げます。頭上からは焼夷弾の落下するざーっ、ざーっ、という轟音が響き、落下音のたびに火勢が増して赤い色と煙が渦巻く。焼夷カードが無数に舞い落ち、次々に発火する。町内会単位の大きな防空壕の扉を叩いては「子供と年寄りを連れています。入れてください」と戸を叩いても、満員だ、という押し殺したような声か、沈黙が返って来るだけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やっと学校に着き、校庭の大防空壕の戸を叩くが、同じ対応です。次の瞬間、照明弾の青い光が辺りを照らし出し、続いてモロトフのパン籠が弾けざーっという焼夷弾の落下音が頭上に迫り、思わず目の前のプールに水が張ってあったのへ飛び込もうとしたができず、その場へ突っ伏す。そのプールへ焼夷弾が塊まって落下、炎と水しぶきと煙が、轟音と共に立ち昇りました。間一髪で、助かったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;コンクリート造りの校舎へ逃げ込む。そこの図書室でアルス児童文庫を見つけ、歴史物語を読みふけったのを覚えている。人類の愚行の最大のもの、戦争と空襲の中で読むのはアイロニカルですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;翌日、家へ帰って私たち一家の運の悪さを知る。空襲の被害は町全体でなく近所は殆ど焼け残っていたが、我が家は全焼。そして母が正しかったことも知ります。父が消火につとめていた玄関前に、焼夷弾が直撃して突き刺さっていた。父が居たら即死か黒焦げだったでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;近所の家の応接間へ夜だけ寝させて貰い、昼は焼け跡から家財道具を掘り出す。２回空襲に遭ったからもうロクなものも残っていません。紙不足でタブロイドになった朝刊だけの新聞で、広島・長崎への《新型爆弾》投下と惨害、そしてソ連の中立条約を一方的に破棄しての不法侵攻を知ります。原爆のことは訳が判からなかったが、ソ連の参戦は子供ごころにも、絶望的なものを感じました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;やがて、富山県射水郡越中大門浅井村の、二番目の叔母の嫁ぎ先のお寺へ、再度の避難です。そこで敗戦を迎えるのですが、それは、次に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このように、神戸という町との最初の出会いは、二度めの戦災との出会いでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;でも、この町の魅力と、のちまた出会うことになります。必殺シリーズの執筆で京都に滞在中、あちこち足をのばした中に、神戸も入ってたからです。北は六甲を背負い、南は海に展いたここは、港町の魅力に溢れていました。阪神大震災の神戸。北野の異人館通り、三宮、トアロード。それらは京都めぐり、滋賀めぐり、大和めぐりとつなげて、のちほど。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）XI　仕事にまつわるいろいろ（その３）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-12/</link><pubDate>Thu, 01 Jan 2009 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-12/</guid><description>&lt;p&gt;必殺シリーズが、『必殺仕事人』(1979～81年）で打ち止めになるかどうかは、視聴率に賭けられていました。根強いファンはいるものの、いわゆる腸捻転現象是正以来、つまり発信局朝日放送・全国ネットTBSを、ネット局テレビ朝日に是正以来、関東の視聴率が低くなり、『必殺うらごろし』(1978～79年)という試行で高かった関西の視聴率も低下、どっちも10%を僅かに越えるだけの危険水域に入ったのです。（まあ現在のテレビ全体の視聴率低下から見れば、10%に達していれば平均レベルなのですが、当時は15%がめどでしたから）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが『新・必殺仕事人』(1981～82年)で大きく回復。三田村邦彦に続くニューキャラクターとして、中条きよしが、そして今まで『必殺からくり人』(1976年)という別シリーズのトップだった山田五十鈴が上置きで加わり、親子で三味線屋をやっている、というメインライターの野上龍雄さんの設定が生き、五十鈴さんの三味線の撥（ばち）での殺し、中条さんの三味線糸での殺しという技が画面的に面白く、ことに糸での殺しなんて物理的におかしいのですが、見栄えがしました。月代をきれいに剃り、きちっと髷を結い、僅かな鬢のほつれ毛が色気たっぷり、というスタイルも映えた。三田村さんのラフな地頭と好一対のクールな二枚目。必殺シリーズ屈指の好メンバーが揃ったのです。音楽も変わった。殺しの出発がトランペットのファンファーレになった。山内久司プロデューサーの大改革です。ここから必殺はマニア向けの番組ではなく、人気番組になる。ただ、これだけ役者が拮抗すると張り合う。内紛の種が、ここで既に蒔かれたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに並行して京マチ子さんがメインの、『必殺仕舞人』(1981年)シリーズが始まる。旅芸人で殺し屋、というシリーズで、各地の民謡が悪をシンボライズする、という仕組み。高橋悦司さんの朴訥さ、本田博太郎さんの小心さ、京マチ子さんの色気たっぷりの妖艶さに、西崎みどりさんの唄がマッチ、これもヒット。必殺シリーズは良き復活を迎えた感があった。しかし、あとで聞くと、予算が常にキツかったそうです。京さんのシリーズが続かなかったのも、出演料問題だった、との説もある。≪殺し屋≫のおハナシでは、テレビ常連のビッグスポンサーが全く付いてくれなかったそうで、『必殺』の異端ぶりは、逆説的に言うならば常に健在だった訳です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、必殺シリーズがこの『新・必殺仕事人』と『必殺仕舞人』に入る前、準備と助走がなされている間に書いた作品について話しましょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『愛した、跳んだ、そして散った』(1980年)。クリント・イーストウッドがイメージアップした硫黄島の戦いで戦死した、1932年のロス五輪で馬術のグランプリ障害飛越競技金メダリスト、西竹一男爵を描いたのですが、テレビの90分に入る規模ではなかったですね。西さんのご子息やJRA竹田垣徳氏など、貴重な取材がメインになり、当時のハリウッドでバロン西の愛称で親しまれた遊び人ぶりなど、そして騎兵の時代が終わって戦車部隊に変り、孤島への派遣で戦車が使えず、埋めて戦車砲だけで戦わされた無念さなどの面が描けず、結局夫人との出会いのボーイ・ミーツ・ガール・ドラマ、その愛だけがメインになった。プラニングが弱かった、という反省があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;9代目松本幸四郎さん（当時染五郎さん）主演で、貴公子ぶりが鮮やかでした。従卒の役の粟津號さんが、ちっと崩してやろうと思い、横浜で有名だったストリップティーズ、マナイタショウへ連れて行った珍談があります。幸四郎さん、人目に立たないよう、大きなマスクにサングラス、帽子目深というスタイルで入ったのでかえって人目に立ち、そしてその姿でカブリツキに坐らされたもんだから、ストリッパーたちが面白がって異常接近、満場の注目を集めてしまったらしい。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このあと、鶴田浩二さんで、やはり2時間スペシャル『42時間の恐怖』(1981年)をやります。たしかテレビ本格主演の最初ではないか。ウィリアム・ワイラーの傑作『必死の逃亡者』(1955年)のジョセフ・ヘイズの原作の脚色です。平和なサラリーマン家庭へ凶悪な逃亡犯3人が侵入、高飛びの中継地点とする。中年の管理職である主人と、その町の出身で旧知だった主犯との息詰まる対決。映画では逃亡犯の主犯ハンフリー・ボガートが主役ですが、オリジナル・キャストは主人がスペンサー・トレイシーでボガートと豪華対決の予定が、キャストの並びでもめてトレイシーが降り、フレドリック・マーチになった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小説では主人の方が主役、と言える。で、そう脚色した。鶴田さん、受けてくれました。そして一ヶ所、セリフをご自分でふくらませた。原作にある主人公の唯一の見せ場、凶悪犯が幼いわが子を抱きすくめて拳銃を突きつけ、人質にして警察の包囲を突破しようとするのへ、その拳銃の弾は策略で主人が抜いてあるが、それを言う訳に行かず、ただ、そいつは射てない、射つ度胸はない、父親の私の言うことを信じてこっちへ来い、と説得するその一点。原作は既に古書で鶴田さんが読んでいたとは思えない。だが、役の勝負どころをはっきり読みとり、ここをふくらませた。鋭い勘、頭の良さ。感心しました。太平洋戦争後の、時代の困難を生き抜いた映画スターは、頭が良く、考え深い大人が多い。佐田啓二、池部良、高峰秀子、みなさん、そうです。なおこれで、小林薫さんがテレビ初出演してます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして柳の下の二匹目のドジョウを狙い、キングスレー原作、おなじくワイラー作品の『探偵物語』(1951年)を企画しました。カーク・ダグラスのやった刑事を鶴田さんに、というアイデアでしたが、原作取得で躓きます。そもそもハリウッドで映画化されたものは獲得が難しい。『必死の逃亡者』は発注局の日本テレビに助けて貰った。これも、と松竹が頼んだら、さすがに呆れられておじゃん。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鶴田さんのお宅へ打ち合わせに行った。そのときの印象が残っています。奥様に、だだっ子ぶりを発揮されていた。家具などが紫系統でまとめられていたのが、奥様の洗練されたテイストを感じさせました。このあと、鶴田さんは本格的にテレビに参入、山田太一さんと組んでNHKで傑作を連発していくことになるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『赤かぶ検事奮戦記』シリーズ(1980年)がフランキー堺さんで始まり、そして土曜ワイド劇場では『山峡の章』（1981年
松本清張原作）という大当たりの作品が出たり、テレビのサスペンスにならない、と言われていた『書道教授』（1982年
これも松本清張）にトライする冒険をしてみたり、TBSが同じ土曜の同じ時間帯に『ザ・サスペンス』という2時間ミステリー枠をぶつけてくるショックに会ったりしますが、それは、次回に。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;必殺シリーズは、そしていよいよ、受験生が殺し屋に加わる、という『仕事人Ⅲ』(1982年)に入り、忽ち賛否両論でファンからも制作する身内である撮影所、テレビ局、共演者からも轟々と湧き起こる、という状態が現出する。それも、次回。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）XII　シナリオを書いてみよう（その３）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-13/</link><pubDate>Sun, 01 Feb 2009 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-13/</guid><description>&lt;p&gt;なによりも大切なのはキャラクターです。優れた、面白いキャラクターを考え、そのドラマを構築する。演劇も文学も大体それで決まります。ただし、キャラクターは単独で独立して生きることはできない。ストーリーとプロットがなければ、キャラクターは生きない。生彩を放ちません。村上春樹を見てみましょう。この作家の創るキャラクターは、じつに独創的です。そして、ストーリーもプロットもまた極めて独創的であり、お互いの独創性がみごとに相乗作用を上げています。ただし、独創性が突出し過ぎると、観客はついていけなくなる。そこはご用心を。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;またキャラクターは、ストーリーとプロットによって、≪育てられ≫ます。手近なサンプルとして『シャーロック・ホームズ』を見てみましょう。彼はきわめてトンがった天才です。その推理はとても面白い。だがワトスンというちょっとロマンチック傾向があり、しかも医者である友人（語り手）がいてこそ、その天才、その推理が生きる。ホームズの天才は認めるが、その推理を疑い、誤解してユーモアをもたらす。小説の語り手として絶好の存在であり、常識というリアリティをもたらすのです。アガサ・クリスティーの、フランス語訛りのベルギー人探偵エルキュール・ポワロ、その推理もまた、友人ヘイスティングスのロマンチックな誤解推理によって生きる。プロット＝語り口は、このように大切なのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それはストーリー、その技法なのではないか。プロットというのはどんな技法で、ストーリーとどう違うのか？なぜ必要か？と疑問を持つ人はきっと居るでしょう。プロット（plot）を辞書で引くとびっくりします。①の意味はなんと、「陰謀・策略」なのです。②でようやく、「筋・構想・仕組み」と出てくる。そもそもはつまり策略です。読者・観客を引き寄せる陰謀・策略なのです。ある文学史家によると、「王が死に、そして王妃が死んだ」というのがストーリー、「王が死に、悲しみの余り王妃が死んだ」といえばプロットなのです。小説・戯曲は必ず良きストーリーに加えて、良きプロットを持っている。ことに戯曲では必須です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だいたいドラマは、特に舞台劇では、必ず事件の終了寸前、クライマックス寸前から始まる。そして始まったらノンストップ。それが正しい書き方です。たとえば『オイディプス』は、主人公の忌わしい運命が暴露される日に始まり、その日のうちに終わります。『ハムレット』は、父の亡霊の恐ろしい死の秘密から始まり、いかに復讐するかで進む。敵である叔父はハムレットの父を殺して王となった秘密を封じようとし、その叔父と再婚した母への憐れみ、憎悪が女への不信をもたらし、恋人オフィーリアを狂死させ、その父、内大臣ポローニアスを王と間違えて殺し、その子、オフィーリアの兄レアティーズの仇討を秘めた剣の試合が組まれ、試合用ではなく刃の付いた、しかも毒を塗った剣で殺されようとします。そこがクライマックスで、ドラマはここまでハムレットの叔父の罪の確認を経、母を責める行為を経て、一気にノンストップで進む。ドラマにおけるプロットの役割をよく示しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;プロットがないと、ドラマもキャラクターも生きない。優れたキャラクターほど、強いストーリーとプロットが必要なのです。もちろん、映画やテレビでは生活感というリアリティが大切で、日常を日常的に生きる人たちのドラマがメインです。そもそもが「動く写真」から出発したアートです。日常的な題材、描写が、ストーリー、プロットと強く関わってきます。そしてそれはまた、それを生む国の風土、国民性と深く関わってきます。その国の映画はどういう生まれ方をしたか、と関わるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エジソンが生んだ、アメリカ映画。エジソンは子供の遊び道具、パラパラ漫画と同じレベルと見ていた。アメリカの映画はスラプスティックから生まれ、チャップリン、キートン、ロイドなどの、≪セリフ≫の字幕不要の作品群を生み、アクションがメインの独自の流れに。日本ではチャンバラ大喜劇の実写から時代劇をまず生む。チャンバラと、ドロンドロンの忍術ものです。フランス、イタリアでは同時代の名優たちの演じる舞台を、そのまま写した。サラ・ベルナールやサシャ・ギトリなどの名舞台が映画化されています。≪演劇のドラマ≫の実写物が始まり。名優の演技を大勢に見せたい、そこが出発点だったからです。セリフは字幕スーパーです。フランス映画はいまだに「脚本」と「台詞（セリフ）」が別々にクレジットされます。グリフィスの『イントレランス』(1916年)や『國民の創生』
(1915年)という芸術大作は、イタリーの大作映画の二番煎じなのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、プロットとストーリーについて、概論しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;４コマ漫画のサザエさんに、その優れた例があります。プロットはほんの日常の小話にさえ組むことができて、効果を上げるという例です。一コマめ。ワカメちゃんが、一枚の写真、髪のふさふさした男性、のを母フネに示し、「これ、だあれ？」と聞く。二コマめ。フネは笑って、「お前のお父さんですよ」。三コマめ、これがじつに傑作で、庭の木の下でひとりしょんぼりしてワカメが「じゃ、今のお父さんは２人目のお父さんだったのか…」
。四コマめ。父の波平が「失礼な！わしゃそれほど変わっとらんぞ！」
。フネは笑い転げ、ワカメは赤くなってもじもじしている。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;長谷川町子は実にプロットの面白い人ですが、これはその中でも傑作でしょう。この三コマめの劇的な誤解と悲しみ、これが抱腹絶倒のクライマックスを生んでいます。良きプロットというのはこういうものなのです。そしてキャラクターはこのようにストーリーとプロットを与えられて、初めて生きるのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;映画は、フィルムまたはビデオに印画された作品を、大量の観客に見せるというサービスです。印画されるのは現実の人間、その世界です。どんなハチャメチャな冒険譚でも、それを為す人間と、それが存在するリアリティを描かねばならない。時代劇でも、撮影された≪時代≫からは逃れられない。人も世界も、その時代の現実を背負っている。それをしっかり踏まえつつ、映画の文法を理論的に成立させたのがエイゼンシュテイン、作品は『戦艦ポチョムキン』(1925年)。この人の映画の文法を次に語ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『戦艦ポチョムキン』は、ロシア革命の初期、待遇の酷さに水兵たちが反乱を起こした戦艦が、オデッサに入港する。オデッサ市民たちが歓呼して迎える。その市民たちを皇帝側のコザック騎兵が襲い、追い散らして、傷つけ、殺す。このオデッサ港の大きな石段のシーンがじつに迫力があり、映像ドラマとして傑作で、せんだって映画『アンタッチャブル』(1987年)のシカゴ駅階段の射ち合いのシーンで、転がり落ちる乳母車というモチーフの一つを、そっくり真似ていました。エイゼンシュテインと『ポチョムキン』へのオマージュでしょう。ただ『ポチョムキン』はドラマとしては単純明快で浅く、エイゼンシュテインのものとしては『アレクサンドル・ネフスキー』(1938年)の、氷上のドイツ・エストニア連合軍対ノブゴロド軍の戦いの方が、ドラマのクライマックスとしてはコンパクトにまとまっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;エイゼンシュテインのモンタージュ理論というのは、カットのつなぎは全く正反対のカットをつなげろ、正に対して負、そうするとその２つから全く新しいイメージの正が生まれ、力強くなるということです。マルクスの弁証法に影響を受け、たまたまソビエト革命のさなかだったからえらくもてはやされた。日本でもみんなモンタージュをやろうとした。まあ当時は日常ドラマよりチャンバラ映画の時代だったから、オデッサの階段的なセンセーショナルなタッチが受けたんですね。こんな笑い話も生まれた。重病人のとこへ医者が来ている。病状を見て難しい表情になる。次のカットで、薬匙がぽんと投げ出される。これはどういう意味だと、みんなきょとんとする。すると監督は得意満面、病状が重く、「医者も匙を投げた」んだ、と。みんなガックリきたそうです。サイレントの時代で、なるべくスポークンタイトルは使わず、描写で見せようとしてたからこんなアホなモンタージュ紛いが生まれたのですね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;芸術表現は、その芸術が生まれた時代には、なかなかその表現の真の使い方に達しないものです。ことに写真は、人・物・風景を写せば成り立つから、大人の玩具、家庭の記録用、といった日常性からなかなか独立しなかった。いい風景に音楽を流しているだけみたいな映画は、トーキー初期随分乱発された。その中からドイツでは『会議は踊る』(1931年）という、ロシア皇帝とドイツ娘の恋愛オペレッタ、フランスではルネ・クレールの『巴里の屋根の下』(1930年)という、これもオペレッタが、優れたトーキー映画として生まれます。世界初のトーキーのハリウッド映画『ジャズ・シンガー』(1927年)も同じようなものだった。日本ではチャンバラ映画が主体だったから、その中で生かされる。ただ、トーキー第一作は現代劇『黎明』(1927年)で小山内薫監督、出演は丸山定夫ら、築地小劇場の俳優たちでした。だから、音楽より、まずセリフを大切するという良い流れで始まったのです。初めにセリフありき、が日本映画のトーキーの精神だったのですね。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）XIII　大船撮影所いろいろ（その４）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-14/</link><pubDate>Sun, 01 Mar 2009 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-14/</guid><description>&lt;p&gt;小津さんと同時期にクランクインして、一週間ずつ付いた作品に触れておきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;岩間鶴夫、田畠恒男、番匠義彰、野村芳太郎さんたち。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;岩間さんは『恐怖の対決』(1958年)というサスペンスで、助監督チーフは古賀三太郎氏でした。何もしないで悠々としていた。組を仕切っていたのはセカンドの篠田正浩氏。カメラマンの小杉正雄氏。この二人は、篠田さんが一本立ち後、コンビを組みました。古賀さんは予告編を作るだけで、現場では悠々と無為の人だった。大船三天皇と呼ばれていた奇人の一人で、予告編を撮るだけのためにエキストラを30人ロケへ呼ぶ、そんな大胆な性格の人でした。三天皇の話はのちほど。私はこの組で始めてカチンコを打った。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「本番！」の声でしんと静かになった中で、カメラの前でシーンナンバー、カットナンバー、撮影順ナンバーをコールして打ちさっと引く。これは上がりますね。巧い人のカチンコはフィルム3コマしか写ってない、なんて伝説があったりして。慣れてくると片手で打てるようになる。だけど、この技術だけはいくら巧くなっても、人生においてなーんの意味もないですね。何の役にも立たない。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;田畠さんは実に穏やかな紳士でしたが、会社に色々押し付けられて、この時は青春もののラブコメだった。この組で初めて宿泊ロケへ行った。朝早いのが辛いけど、楽しかったですね。この頃はまだ確実に儲かっていた。テレビがなかったですから、一ヶ月に4回は必ず映画を見るなんて家族もいた。一日だけの東京ロケで前夜、必ず旅館へ泊まった。歌舞伎座の裏通りの厚生館（コウセイカン）というのが松竹の定宿。今も厚生館ビルとして残っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;番匠義彰さん。作品は漱石の『坊っちゃん』(1958年)。坊っちゃんは東映を止めてフリーになった南原宏治（当時は伸二）。同じく日活をやめて松竹に来た杉浦直樹さんが、特出で新聞記者。マドンナは有馬稲子さん。杉浦さんは石原裕次郎があっと言う間に主演スターになったため、発奮して松竹へ移ったらしい。『錆びたナイフ』(1958年)で準主役のカタキ役を演じた後の移籍でしたね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この『坊っちゃん』は本来、野村芳太郎さんが撮るはずだったのが、キャスティングで会社ともめて降りて、佐田啓二、高橋貞二、岡田茉莉子を連れて東北オールロケ作品に強引に出発してしまっていた。それが帰って来てセット撮影に入り、そっちへも付きました。当時まだカラー作品は現像が高くつくので、以上の4本のうち、番匠組と野村組だけがカラー。それもラッシュのときはアタマ1カットだけがカラーで焼かれ、あとはモノクロでした。編集・ダビングはそれでやった。なんせ急遽クランクイン、すぐロケへ行ったので、「題未定」と台本表紙はなっていましたね。この作品はダビング・ミックスまで付きました。決まったタイトルは『モダン道中　その恋待ったなし』(1958年)。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それやこれやで仕事を覚えたわけですが、同時に私のための個人教育として、田村孟さん（のちの脚本家）がずっと教えてくれた。二人で酒を飲んでいた時間の方が長かったかもしれない。田村さんはちょうどスクリプト係のシートマンになったばかりで、編集のツナギの面白さを知ったばかりだった。もっぱら、その面白さばかり教わっていました。私は既に大学時代に関西で、制作座というアマチュア劇団に客演し、そのまま入座しました。関西新劇大合同で関西芸術座というプロ劇団が生まれましたが、そこまで居たため、裏方の仕事には慣れていました。衣装や小道具の付帳も書けました。そういう意味では、比較的すぐに役に立ったかもしれません。気持ちも楽でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、今考えると、それは良くない在り方です。そういう裏方仕事に屈辱や不満を抱いて、早く監督になろうと決心する方が良いのですね。芝居の脚本も既に3本ぐらい書いており（上演はされなかったけれども）、本来シナリオを書くのもすぐやれそうだった。でもやらなかった。一番最初に貰った台本に、自分なりにコンテ、カット割りをやってみたけれど、あくる日の現場では丸っきり違っていてアホらしくなったり、助監督部のシナリオ集が僕たちのを載せるために出たのへ、同期の山田太一さんがとても面白い奇想ドラマを書いたのにショックを受けたり、それやこれやで書くことに気持ちが向かなかった。働けば忙しい作品ほど残業料が入る。仕事のないときは大阪の家へ帰ってもよかったし。「研究中」という札が下り、次の仕事を助監督室の監事たちが決めて呼び出されるまで自由だった。それでちゃんと月給もくれたしね。安かったです。普通の会社だと、入社したときから15,000～16,000円くれたみたいだけど、松竹は最初の一ヶ月は9,000円、そのあと12,000円。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ひとわたり組に付いたあと、初めてフォースとして1本仕事をすることになる。堀内真直監督『自殺を売った男』(1958年)。大下宇陀児（おおした うだる）原作の、ちょっと変わった題材でした。自殺志願の男が、悪事に利用されるというストーリー。主演は田村高廣と、東映から移籍してきたばかりの高千穂ひづる。そして新人の泉京子も出演しました。泉京子は、有名な牛鍋屋の娘で、グラマラスな姿態を買われて大部屋からスターに抜擢された人物でした。出が役者ではないという弱点があったものの、この作品ではマイナスにならなかったと思います。彼女の素質は生かされず、演技の未熟さが目立つ感じではありましたが。田村高廣は役柄の模索に悩んでいた頃で、高千穂ひづるは移籍で意欲に燃えていた。この二人は熱演でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私個人の記憶としては、深夜、終電後の浅草駅での大ロケーションがあり、エキストラを動かす経験をいろいろしたことです。新劇やってたから、演技は自発的、方向性のみ示す、という演出方法にとまどいましたねえ。動きをつける、ってことに。あと、下田で長期ロケがあった。蓮台寺温泉というところに泊った。あとあと考えると市内には大きな旅館がなかったのね。ハリスが滞在していた了仙寺が残っていて、見学に行くと性の玩具や艶本の博物館になってて驚きましたね。エロ寺って呼ばれていた。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）XIV　町歩きいろいろ（その４）</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-15/</link><pubDate>Wed, 01 Apr 2009 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-15/</guid><description>&lt;p&gt;陸軍将校（参謀課の佐官）に嫁した2番目の叔母を頼って行き、土蔵の中へ住まわせて貰うことになりました。昭和20年は不作であちこちで飢饉状態が起きていたらしいが、農家へ疎開するとともに米の飯は食えました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逃げた先の富山での転校体験は辛いものでした。見世物扱いなのだ。教科書を読むときの早口が笑いの種。富山弁が判からない。言葉が通じないとどうしても除け者になる。それでなくても早生まれで一年分育っていなくて、そして背が低いチビだったから。8月初旬なのに何故夏休みではなかったのか、いまだに疑問なのだが、農繁期に手伝わされるための変則授業だったのではないか。稲刈りの手伝いというのが稲の束を2つ以上背負って運ぶのだが、私はチビで非力だからひとつしか背負えない。女の子にまで馬鹿にされて辛かった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、8月15日。叔母のところは古い寺で、墓地や田も持っていた。その寺の本堂でラジオを聴いた。雑音が激しく、あの竹法螺のような天皇の声が、何を言っているのか判らない。覚えているのは、たまたま堺から来ていた父親が、「ああ、負けたんや。これは負けたんや」と大声で言ったことだ。現役の陸軍参謀の家で、家族の前で、そんなことを言っていいのか怖かった。子供にしては気が回り過ぎるようだが、度重なる疎開・転居で人を恐れるようになっていたのだ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、富山の田畑の広大さや庄川や飛騨山系の雄大な山々の景色は、町育ちの私たちにとっては心を広くさせるものでした。最初の疎開先である堺の金岡でも、畑に出てはハコベやヨメナを摘んでお浸しにして食べました。野草のフレッシュな味に驚きました。さすがに農作地帯では米もちゃんと配給され、私たちは飢えを知らなかったのですが、史実ではもう配給米の確保も揺らいでいて、この夏から秋にかけては不作で、都会では決定的な配給米不足が起こりつつあったはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、戦争が終わった以上、堺へ帰らなくてはならない。殺人的混雑の列車に無理やり乗り、父はデッキの戸口に重いリュックを担いだままぶら下がり、大阪へ向かいます。当時、まだ北陸線は単線で、おまけに機関車の形態や配電コースが、米原以南の東海道本線と違っていて、米原で乗り換える。湖西線ができた今でも、かなり最近まで、塩津で湖西線と北陸本線が列車を繋がなくてはなりませんでした。手間暇の掛かる旅でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さて、大阪梅田に夜着くと、空襲に備えた灯火管制がなくなり、煌々と燈がついていて明るく、まずは感激しました。そして、構内にはボロと垢だらけで飢えている浮浪者の大群が寝泊りしていることに驚きました。その大半が子供で、空襲で親も家も失って浮浪児になっているのです。駅で寝泊りし、旅行者に食べ物を乞い、掻っ払いを働いて生きていました。その凄まじい光景を見回して驚いていると、賑やかな笑い声が耳に入り、そっちを見て激しいショックを受けました。。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;派手な服装、化粧の女たちが嬌声をキンキラあげながら来る。その女たちが追ってくるのが、生まれて初めて見るアメリカ兵で、しかもアフリカ系だった。大声でスラングを喋り散らし、鮮やかに白い歯を見せて笑っていた。この黒人兵たちが戦争の終わりを、敗戦を、天皇の竹法螺勅語よりもはっきりとリアルに思い知らせてくれたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、私たちは父の勤め先の寮に住むことになりました。最初に直面したのは「飢餓」でした。敗戦直後の秋、その次の秋、続けざまに不作で、ことに次の秋は厳しかった。食べられるものは草でも食べました。米の配給といっても米は殆どなく、干し芋や干しトウモロコシ、干し甘藷、米軍のレーションが手に入る程度でした。レーションは紙箱に入っており、A、B、Cの3種類があり、それぞれ朝食、昼食、夕食になっています。朝食はチーズとパンがメイン。昼はどうだったかな。夜は肉も入っていたらしいが貰ったことが無い。チーズというものを知らない日本人が多く、石鹸だと思って身体を洗った人もいたらしい。髭剃りクリームももたらされた。あの金持ちの伯父がアメリカ軍のを手に入れていた。ハミガキと間違えて使ったら、口中泡だらけ、鼻からも泡が出たっけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ついには米代わりに茶色のザラメの砂糖が配給され、カルメ焼きにすると満腹感があるといわれて、その小鍋と攪拌用の木の小棒まで買わされた。夜店で売っているけれども中が空っぽだから満腹感なんてない。そこいらのサツマイモ畑で収穫が終わると、一斉に入り茎を抜いた。皮を剥ぐと食べられるのです。当時はイチジクが空き地や庭地に野生同様に生えていて、その実を争奪しました。グミの実も。墓地へ行くと墓碑によく蜂が巣を作っている。煙で燻して蜂を追い払い、蜂の子を食べた。新しいものは生でも旨かった。もう針を持っているのも居て、口を刺されて騒いだっけ。イナゴも食べた。羽根や脚をむしり生食するのです。米を食べたばかりのは、お腹に米が詰まっていて旨かった。いつも本当に腹を減らしていました。それはもうはっきり≪飢え≫でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;名前だけは「国民学校」から「小学校」に戻ったものの、さてしかし、どう授業していいか先生たちも困り切ったらしい。英彰国民学校は英彰小学校。焼け残った講堂（あの空襲避難所）を幕で仕切って教室にしました。先生や生徒の数は、空襲での焼死や地方への疎開でがたっと減ってました。授業は混乱していました。教科書の墨塗りがありました。戦争や歴史に触れた皇国教育部分を消すのです。形の上での民主主義教育が、前のめりにカリキュラムに介入。まず、生徒大会が催されます。全校生徒を校庭に並べ、さあ討論して学校へ要求を出せ、そんなことをアメちゃんが言ってきたらしいが、討論なんてやり方も知らず、テーマもないのにできやしません。やけくそな誰かが「明日は学校を休みにしよう！」などと言い出し、あっという間に全員賛成。先生達はみんな逃げていて、人の良い中卒の先生が残っており、こんなアホな決議にもにこにこ笑っていた。ただし、直後にその先生は校長と教頭から即呼ばれ散々締め上げられたらしく、一斉休校はなんとなくパアになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;クラスでの生徒会もたびたび開かれたけれど、お互いの日常の揚げ足取り発言ばかり。すると様子を見ていた元級長がすっと立ち、「先生のいうことをよく聞き、よく勉強しましょう」なんて、反対のしようもないアホ意見を言い、こりゃもう賛成多数で決まるわな。その程度の民主主義だったのです。言っておけば、この級長は弱い者いじめをやる、とっても嫌な嫌な性格でした。苗字は前田だった。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;担任は前任の藤田先生が爆死したのか、転校か、来なくなり、門永先生というのに変わってました。本が好きらしく、漢和辞典の使い方なんかきっちり教えた。クラスで一番金持ちの家の子のとこへ、家庭教師に行っていた。学校の教科書をテキストにしているらしく、難訓な漢字をクラスで初読の時、その子だけがすらっと読めた。これは教育としてフェアじゃないよね。この先生は気分屋で、生徒を気まぐれに怒鳴った。私が席を探してうろうろしてたら、「ちょろちょろするな、鼠！」と怒鳴りつけた。そのくせ、僕が池田亀鑑の『源氏物語講話』を、伯母さんに買って貰って持っていたら、「おい、それ貸してくれ。お前こんなの読んで解るのか？」と、正直とも無礼とも誉め言葉ともつかないことを言われたっけ。この先生、おデコだったため、デコ永と呼ばれていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ローマ字の勉強から簡単な英語の授業もやることになった。教科書なんかなかった。戦争中、いちばん排米排英の話をしていた山田って先生が、その係になったのが可笑しかった。また、戦争中、徴兵を避けるために代理教員になっていたあんちゃんが、その係になり、野球もやらなきゃいけないというリーダーにもなっていた。なんか、いい加減な≪戦後≫でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして新制中学ができ、英彰小学校の焼け跡の焼け残ったコンクリート障壁によせかけた木造校舎ができた。私はこの新制中学第一期であり、このあと新制高校の第一期生にもなる。この中学で覚えていることは、アメリカ軍軍政部から女性（日本人）の検査官が来て校長たちがパニクり、授業の引き締めを全教員に厳命、さぼってる生徒が居たりしたら大問題になるからしっかり指導把握せよと通達した。その大変な日に私は体育をずる休みして教室でさぼっていたら、その検査官と校長が入って来た。パニクった私は気分が悪くて体育は休んだ、と言いわけし、検査官はこういう生徒の管理はどうしてるのかと校長に聞き、英語ですらすらメモを取る。校長はパニクって、私もパニクって、後々大変なことになるんじゃないかとビクビクものでしたが、なんにも起こりませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新制中学になって何というか、窓が大きく開いた気分になったのは、社会科の副教科書として『民主主義』という厚い本が配られたことです。一読して、ほんとに気持ちが明るくなった。いい内容でした。この通りに日本が進んでいれば、まっすぐな国、まっすぐな国民になったでしょう。私と同年輩や先輩の人達も、読んでいる筈です。政治家になった人、財界人になった人、読んだでしょう？この素朴で熱い自由への意志、あなたたちの裡でどう生きてるんですか？それとも、≪日本に合わない≫から捨てたんですか？≪戦後レジームだから≫とかで？&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この中学の国語の先生が、私の作文をみんなの前で褒めてくれ、学校の文集に文章を書かせた。確か、ヒューマニズムがテーマだった。これで私は自分には絵のほかに（絵は得意でした）、文章が書けることが判り、現在の職業に繋がっていると思う。しかし、これで直ちにいじめが来た。同級生のみならず、先生の中にも、馬鹿にしたりいびったりするのが現れた。以下、次回に。&lt;/p&gt;</description></item><item><title>信天翁通信（あほうどりつうしん）XV　仕事にまつわるいろいろ(その４)</title><link>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-16/</link><pubDate>Fri, 01 May 2009 00:00:00 +0000</pubDate><guid>https://yoshidatakeshi.jp/essay/essay-16/</guid><description>&lt;p&gt;松本清張という作家は、それまでテレビではあまり活かされて来なかった不遇の人でした。こまやかな日常リアリティとサスペンス、クライムをみごとに調和させた作風が、テレビの日常性の中ではかえって活かしにくかったんですね。土曜ワイド初期、まだ90分の時代、『声』(1978年)がその作風をよく活かしていると考えた私は、松竹側のプロデューサーである佐々木孟さんに提出しました。佐々木さんは巨匠渋谷実のプロデューサーでもあり、中村登とも『紀の川』(1966年)という大ヒットを放っていた、既に有名な人物でした。倍賞千恵子さんなら企画的にOKということで、その親友に泉ピン子さんを私が推薦しました。ピン子さんも、倍賞さんとならと乗ってくれたのですが、その倍賞さんが土壇場で降りた。まだ土曜ワイドと私が創ったドラマトゥルギーを信用し切れないとこがあったようです。松竹のテレビ部長の山内静夫氏など、「失敗作だね」と面と向かって言ってたからね。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ところが、これが視聴率13%。10%を切っていたところだったので、みんなニコニコ。続いて、同じく清張で、『顔』(1978年)。今度は倍賞さん、出てくれたのですが、清張さんがうっかり原作を二重売りしちゃって、TBSの日曜ドラマで同じものが出ちゃった。すまん、すまん、と謝っておられました。でも向こうは1時間ドラマだったかな。ホームドラマ路線の日曜劇場だったので、カラーは全く違うものになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さあそれから松本清張が当りだして、松竹では続けて作り出し、『紐』(1979年)、『種族同盟』(1979年)とことごくヒット。これはテレビドラマ向きではないと、ANBのプロデューサーが反対したのを押し切った『書道教授』(1982年)。ノゾキもやれる密会の宿ではないかという、疑惑設定が絶対受けるという私の判断が当たりました。視聴率20%。試写のとき、まだ局プロは失敗作だ、と投げていた。いまやテレビ化が繰り返されています。私の最高視聴率29.7%を出した『山峡の章』(1981年)は、これはテレビ向きの題材だからイケるという、プロデューサーの判断でした。新婚の夫が新妻の妹と東北の山深い温泉で心中する、というショッキングな謎の事件が汚職の責任を擦り付ける為の殺人であり、心中なんてあり得ないと探る妻が、結婚前からの夫の友人であるジャーナリストの助けで真相に達する。ラストは玉川堤の謎めいた療養所へ潜入、殺されかけるのをジャーナリストに助けられる、というプロット。プロット組むのにけっこう苦労しました。話が複雑で。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして松竹社員だった私は、京都へも出張執筆させられる。必殺シリーズへの参加です。最初は中村主水ではなく、山田五十鈴、沖雅也の『必殺からくり人・富嶽百景殺し旅』(1978年)。広重描く富嶽百景の一つ一つに、罪と真犯人が暗示されている。私の担当は『本所竪川』。必殺シリーズ独自の視覚世界を創造した名カメラマン、石原興の第一回監督作品でした。社員だから脚本料安かった！確か、1hもの6万、2hで12万。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『からくり人』の直後、またすぐ大船に呼ばれ、ライオネル・ホワイトの『真実の問題』を手掛けることになりました。この企画は私が提出したものでした。秋吉久美子を起用することが決まり、双子の兄弟とそれにそっくりの犯人という難しいキャスティングで、松竹の佐々木プロデューサーには苦労をかけましたが、高視聴率を獲得しました。放映タイトルは『笑う真犯人 危険な妹』(1981年)でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そのうち、『必殺』が世界を変えようと動き始める。異色作『必殺うら殺し』。オカルトの世界です。私は三本書いたかな。これが視聴率が10%切るか切らないかという、当時14～15%が普通だった中では極めて低視聴率。よし原点へ戻ろう、そしてどれだけ続くかやってみよう、と『新・必殺仕事人』が始まります。私も加わり、私の回で、題材の面白さ山田五十鈴、雁治郎対決というキャスティングの凄さから、18%という数字が出、『必殺』は復活を果たします。そして世界が変わる。山内久司プロデューサーの狙いでした。その黄金時代が再来します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;受験生とはいっても、その時代では≪素読吟味≫（そどくぎんみ）という、直参の子弟のための一年一度の学問テストが正式のものですが、これでは受験生という感じが出ない。殺しの術の道具もない。そこで医者の家系にし、長崎留学、シーボルト塾に入るため勉強中ということにした。殺しの道具はライデン瓶を使っての感電ショック。殺しには余り成功せず、探索とアシスタント役を千代と組んでやる、そういう設定にした。演じたひかる一平は、NHKの歌謡番組で見つけた。紺ガスリと袴という書生姿が似合いそうだった。事実、似合いましたね。彼の登場には、スタッフや撮影所での批判がかなりあり、必殺ファンからも批判が出た。ガキなんか出すな！&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;驚いたのは、それで判ったのですが、田辺聖子と白州正子が批判メンバー、つまり必殺ファンだったということです。これにはみんな喜びましたねえ。天野祐吉さんたちの『広告批評』という雑誌から『必殺』製作側対ファン側という座談会が申し込まれ、ABCプロデューサーの山内久司さんと、私が出席しました。可笑しかったのは、ファンの側は、もっとハードに、もっと悪を大きく、という声が大きく、我々作る側は、今の『必殺』は、かなり市民サイドになってしまっているからリアリティを大切に、という主張でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;大体、小市民にとっての悪はお役所官僚か、奉行所関係、ヤクザとか暴力団になりがちです。そして殺せばおしまい。ドラマとしては日常ルーティン、悪も深く大きくはない。生活・人間を深く描くことが大切になるが、時代劇で一時間ものというと、それも限界がある。この限界がはっきり見えたのが、初めての映画として『必殺』を作ることになった時でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「これは殺し屋同士の殺し合い、で行くしかない。」そう山内久司プロデューサーが言ったのです。びっくりしました。そんな単純なメイン・プロットで二時間持つか？だが、執筆に掛かると、いつもやっている一時間の話では確かに持たないが、弱者の恨みを晴らすという部分は『必殺』の芯だからそこは外せない。共作者の野上龍雄さんによる、若い女郎の愛猫が女郎の元締め夫婦のイジメがもとで殺される、というタネで、仕事は前進。その殺しをきっかけに江戸の闇の世界を仕切ろうとする集団が現れて介入、次々に江戸の仕事人が消される、そんなストーリーになり、ラストは芝居小屋での血戦、殺し合い、それでおしまい。最後の脱出は藤田さんの提案で潜水艦に。なんかゴッタ煮のようなドラマになりましたが、キャスティングの面白さと話の運びの奇抜さで見ていて面白く、大ヒットしたのです。会社から私に祝電が来たっけ。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、テレビの方も節目節目に二時間スペシャルを入れ、新しいシリーズに入っていくという形が出来ます。そのきっかけになったのが、最初の二時間スペシャル『仕事人アヘン戦争へ行く』(1983年)です。アヘン戦争で親兄弟を殺され、旅芸人の一座へ入って日本へ逃れてきたアグネス・チャン。盲目の彼女を拉致、口を塞ごうとする清国の密使、香港の見世物師、鰐淵晴子（入船屋お北）。アグネスを助けて主水たちと組む、伝馬町大牢の隠し囚人、表向きは牢死した筈の平賀源内に宮口精二。源内を送って来る町奉行、遠山の金さん＝栗塚旭。そして、長崎へ気球でやってきたセントヘレナ脱島のナポレオン＝クロード・チアリ、その気球で香港へ飛び、アグネスを故郷へ送り、親兄弟の仇討ちをしてやる仕事人たち。仕事人初の海外ロケでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして、必殺シリーズはまた新しい出発をします。『必殺仕事人Ⅴ』(1983-84年)で、新メンバーに村上弘明、京本政樹が加わります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新シリーズにとって難しいのは、二時間スペシャルの題材です。山内久司氏の指摘は的確で、そもそも殺しがひっそり行われるから大きな話にならない。二時間の映画とかスペシャルにするには、大きな悪のからみが必要なのです。この悪の設定が普通ではつまらない。いろいろ試しましたが、どうしても史実絡みになってしまう（後で群述します）。思い切って西部劇にからめるのもやった。『主水、第七騎兵隊と闘う』(1985年)。カスター将軍を殺したのは主水たちだったというサプライズ設定。正月にちょいと散歩に出掛けた主水が、おりく（山田五十鈴）に引っぱられ、天保水滸伝の利根川での血闘に巻き込まれ、その最中にワープして西部へ。そしてカスター将軍率いる第七騎兵隊とシッティングブル率いるネイティヴアメリカンの戦いに巻き込まれ、騎兵隊に親を殺された娘（水前寺清子）の頼みでカスターを殺す、というお話なのですが、シッティングブルの孫娘から、「カスターを殺したのは私の祖父だ」と厳重な抗議が来て、訪日中だったその人にプロデューサーが会いに行く、という事態が起きます。黒澤明がストーリーの飛躍ぶりと奇抜さに感心した、という話も、仲代達也から。それらは次に。&lt;/p&gt;</description></item></channel></rss>