Albatross

信天翁通信(あほうどりつうしん)

信天翁通信(あほうどりつうしん) と、いうのを始めます。 阿呆鳥、信天翁。アルバトロス。アホウドリ科アホウドリ。両翼の全長が2メートル。最大級の海鳥ですが、日本の鳥島に200羽(*旧データ)いるだけの国際保護鳥。なぜそんなに少ないのか。 好奇心が強く、無警戒に人に近づくので羽毛を取るのに乱獲されたのです。簡単に殴り殺されて。で、アホウドリ。 信天翁という呼び名は、自分では魚を取れず、他の鳥の落としたのを拾ってきて生きている、つまり天を信じて生きているから、と古代中国の百科事典『五雑俎(ござっそ)』にありますが、これは古代中国人の見損ねで、潜水せずに魚をすくい取るワザの持ち主なのです。 この、好奇心が強く、好きなモノやコトだけをすくい取るというやり方で、いろいろ書いてみるつもりで信天翁(アホウドリ)通信とネーミングしました。 いろいろ発信します。 200タイトル以上脚本を書き、監督作品もあり、そのエピソードいろいろ。 松竹大船撮影所育ちなので、撮影所のエピソードいろいろ。大船はディレクターズシステムで、監督が映画作りの芯であり、私のいたころは小津安二郎、渋谷実、大庭秀雄、中村登、木下恵介、野村芳太郎たちが揃い、大島渚、篠田正浩、吉田喜重、山田洋次たちが撮り始めていました。そんな、いろいろ。 また、必殺シリーズ後期のメインライターだったので、そのエピソードいろいろ。そして、書いたが実現しなかった岸恵子とアラン・ドロンがゲスト予定のパリロケ作品、主水が狸御殿へ行く作品、スペインロケ作品の脚本も陽の目を見せたい。 同じく未撮に終わった、明治の初め、御雇外国人の手を借りず、日本の若者二人が京都の人々と成し遂げた疎水作りのドラマ、も。 そして町歩きいろいろ。 シティボーイではないが場末の町っ子で育ったからか、町歩きが性に合います。 育った泉州、堺。 大船が仕事場で本社が築地だったので、鎌倉、横浜、新橋、銀座。また、仕事のロケ地。 必殺シリーズで滞在した京都。 みんな、今とは全く違う顔の町でした。それぞれに独自の表情を持っていました。今は、どうもみんな似てきました。 盛り場、町々、郊外のたたずまい。そんないろいろ。 では大船撮影所いろいろから始めてみます。 (*編集注: 2015年現在、個体数3,000羽を超え繁殖地も増えているようです) (*編集注2: 信天翁通信(あほうどりつうしん)は、2008年から2015年の間に執筆されました。原稿用紙に書かれたものをパソコンで文字起こししました。そもそも正確な日付がない上に、WordPressからGravを経て今では全く分かりません。表示されている日付は記事ナビゲーションを動かす便宜上のものになります。)

March 2, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)I 大船撮影所いろいろ(その1)

正式名称は松竹撮影所です。 桜がみごとでした。吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、田中絹代主演、『真昼の円舞曲』に、ワルツのリズムの移動パンで名カメラマン生方敏夫が撮った、在りし日の花盛りの姿が残っている筈です。 その桜がよく映えた所内の建物群は、すべて撮影に使えるさまざまなスタイルで建てられていました。 赤い西洋瓦に白壁の事務所棟は、小鐘楼を備えた教会風。テレビ映画でもよく使われました。 製作部、監督個室、助監督部、撮影部、美術部が入った二階建ての本館は、スレート葺きに白漆喰壁で、木組みを見せた寄せ棟造り。風見鶏のある鐘楼や古雅な玄関、ベランダも備えており、土曜ワイド江戸川乱歩シリーズの「悪の館」としてしばしば登場しました。また、「俳優館」と呼ばれる、南京下見の板張りの建物には、俳優の楽屋や美粧、結髪、床山があり、学校としてもよく使われました。 これらは昭和27年、謎の放火で消失した本館跡の再建ですが、ステージ群も個性的で、蒲田撮影所から移築した蒲田本ステージ。また、グラスステージも陽光を入れるための鋭角の大屋根を、スレートに変えたもののそっくり残っていて、この二棟は現存すれば文化財ものでした。撮影所鳥瞰図は、『人は大切なことも忘れてしまうから。大船撮影所物語』(山田太一ほか編・マガジンハウス社刊)にイラストあり。私が解説しています。 さて、ところが、入社した春のこの桜を見ていないのです。入社式も知らず、恒例だったという木下恵介監督邸の招宴も知りません。補欠採用で6月入社だったのです。 大船の助監督試験の、独自の、実にユニークなシステムの結果です。ちょいとその顛末に触れましょう。 助監督試験は助監督から成る委員会が仕切り、会社も労政課も一切関われなかった。その第一次試験問題は、四百字詰原稿一枚のストーリー提出。題は《某月某日》。 この募集要項の掲示をたまたま見たのが、久しぶりの登校時で、当時全く大学へ行ってなくて演劇活動、それも学生演劇からプロの劇団(制作座→関西芸術座)へ繋がって入れ込んでいたので、ほんとに好運でした。時代(昭和33年)は、文学部出身に会社就職口がなく、新聞社とかNHKが大手で、民放テレビはコネ募集。教職課程を取っていた者が多く、私もそうで中学・高校教師の就職試験も受けていて、和歌山県の試験には通っていたのだが、NHKと朝日新聞には筆記試験で落ちてお先真っ暗。そんな時、この掲示に出会ったのです。すぐに、ストーリーを送りました。パーティーの招待状の日付を、うっかり某月某日というメモのままで印刷に出し配達されてしまう有閑マダムの話でした。 すると、第一次に通ったので、第二次の筆記試験に来い、という通知が来た。貧乏でしたから、夜中に乗ると朝着く唯一の大阪東京間各駅停車、たしか運賃900円ので行きました。大船中学校集合。校庭いっぱい受験者がいた。同期の前田陽一は四千人から選ばれたってよく威張ってましたっけ。出題は一般常識、外国語、選択で理科、または数学。そして、論文と物語。この二つが実に独自なものでした。モノクロームの写真が配られ、被写体は痩せ衰えた長髪の男で、乾からびたパンとも石塊とも見える物を口に当てている。そこから発想して、論文と創作を書くのです。《時代の飢え》といったようなことを、論文は書いた。創作は、そのころシューベルト『冬の旅』全曲をディスカウが歌ったLPが出て、入れ込んで聴いていたからそこから発想した記憶があります。 そして、これも通ったのです。面接試験でまた大船へ。今度は撮影所が会場でした。数人ずつ、口頭試問を受ける。そこで、はっきりと大船の独自性が見えました。試験官は、助監督の委員たちだけでした。《中村登監督》という名札があったけれど、欠席していました。会社側で覚えているのは、所長の大谷隆三さんのみです。つまり、助監督が仕切っていたのです。 その会場へ労政課の人が案内してくれたのですが、「あなた筆記で成績トップでした。絶対受かりますよ」と言われて、びっくりしました。ところが、その後来た通知は補欠。つまり、不合格。ガッカリというより、不思議に思った。口頭試問は落ちるムードはまったくなく、私の創作は委員の一人、野崎正郎氏(のちに監督。『広い天』『次郎物語』)がとても買ってくださり、朗々と読み上げて下さった、なんてエピソードも出たし。 筆記でトップなのに落とすとは、と、労政課がクレームつけたなんて入社後聞いたが、助監督会の決定は会社も動かせない。これが大船の助監督採用システムでした。試験委員の大島渚さんたちとは、のちに助監督仕事を共にしたし、田村孟さんは私の教育係をやってくれたし、なんで面接で落ちたのか聞く機会はあったのに聞かなかったなぁ。入れた嬉しさが強かったからです。桃山学院という家の近くの私立学校で教師をしていましたが、欠員が出来たから入社するかと問い合わせが来たので即辞めて上京しました。胸の検査で落ちた人がいたそうです。 で、即実務実習。給料は、半年間は試用期間ってことで9,500円。半年後12,000円になりましたが、残業が多かった。独自のシステムで給料が10日と25日と分けて支払われ、残業が2のつく日には分けて出されます。だから、仕事していればお金には困りませんでした。 実習は、そのとき撮影中の組に一週間づつ付いた。『恐怖の対決』(岩間鶴夫)サスペンス。生まれて初めてカチンコを打つという、サスペンスがありました。『抵抗する年齢』(田畠恒男)。生まれて初めて宿泊ロケへ行きました。伊豆でした。『その恋待ったなし』(野村芳太郎)。カラー映画初体験。まだモノクロの方が、多かったのですね。生まれて初めてダビング作業を経験。さて、そして小津組、『彼岸花』。小津安二郎初のカラー映画。これには、10日付きました。実に独自な、撮影現場でした。詳しく書いてみましょう。私の大船物語も、そこからが本番かもしれません。

March 3, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)II 町歩きいろいろ(その1)

町、そして町歩きが楽しくなったのは、松竹へ就職してからです。それまでの生まれた堺、堺の空襲で逃げた神戸、そこでも機銃掃射や空襲に会って逃れた富山、敗戦で戻った堺、大学卒業までいた大阪、それらはすべて生活空間だった。大学へは奨学金で通っていて、小遣いもその中から捻出、映画は第二封切の二本立て、演劇サークルの月イチの例会、それでギリギリ。そのためにいつも結構な距離を総て歩いて移動したが、それはここでいう町歩きとは違います。。 議論、雑談の場は喫茶店。コーヒー30円。大阪人の常食のキツネうどんと、同じ値段でした。屋台の鮨が一皿三個付け、つまり3個で20円だったかな。焼酎、コップ一杯20円。新世界あたりで串カツが一本6円。そんな状況のところへ、大学4年の時、トリスバーブームが来ます。ハイボール30円。コーヒーと同じ値段でした。カウンターバーでバーテンダーがいた。このバーテンダーの質が高かった。太平洋戦争から戦後にかけて時を得なかった人たちが、やっと表舞台へ出てきたんですね。都会的なムードがあった。常連になると、小冊子『洋酒天国』をくれる。松竹入社後、新橋・銀座・鎌倉・横浜の町歩きの面白さを知ります。給料を貰うようになり、お金もかなり使えるようになった。バーというのが、町歩きの魅力のひとつであるというのが解ってくる。バーテンダーバーというのはそう高くなかった。女性がいませんから。 では、今行っているバーから昔のバーへ、つまり今の町歩きから昔の町歩きへ、《時》と《町》を往きつ戻りつしてみましょう。 銀座。ブリック、トスティ、ロックフィッシュ、三笠会館5517、モーリ(毛利)。 銀座は歩きやすい。店もヴァラエティに富み、老舗も多く残ってます。ただ小粋さが殆ど消えてショウウィンドウが大きくなり、海外ブランドショップが増え、町の表情が取り澄ましたものになった。昔は気安い町でした。 そんな中で並木通りのブリックは、1958年(昭和33年)当時のまま重厚な木組と表扉。入ったすぐ右が、厚いロングカウンターです。 地下と二階は、スナック風。3時に開店ですから、夏など開け放った扉からの微風と街路樹の緑が楽しめ、ハイボールを楽しめます。 スナックも兼ねているから、メニューが豊富。トリハイもあるよ。 トスティ。数寄屋橋通り北端。カウンターの端に通りに面した窓のある、あのクールと同じ造り。小じんまり、と静か。酒、種類豊富。私にとっては、ラムが。マスターは、あのトニーズバーのトニーさんの弟子。 ここで昔の思い出を。クールとトニーズバーはよきバーでした。マスターの古川さん、トニーさん、風格あったですね。 古川さんの定位置はカウンターの端、通りに面した小窓の前。暮れなずむ街を眺めながら、「これがバータイムでございまよ」と、目を細めてにこにこしてらした。食前酒を軽く、または食後酒を軽く。ぐだぐだ尻の長いのはバーの飲み方じゃないというセオリーの慇懃だが、怖い人で、その前へはなかなか案内してもらえなかった。窓の前のコリドー街が堀割だった頃は、船で来る粋な客がいたそうだが、それは私の前の時代です。カウンターは立ち飲み。 トニーズバーは、新橋十仁病院の横の通りの地下。代変りして今もあるかも。ロングカウンターだけのスタンドバー。奥のトニーさんの定位置の前だけ少し椅子があり、馴染みになると座れた。カルヴァドスのコレクションは有名だったが、どうなったか。ここもセオリーに頑固で、女だけでは絶対入れてくれなかった。英国流だそうだが、社会がレディーファーストではないので本末転倒ですけどね。女性同伴はOKで、「ご同業ですか?」と確認しての同業者割引があったっけ。トニーさんのアネクドートでびっくりしたのは、映画俳優高橋貞二の衝突事故に同乗してたって事。飲み仲間だったそうです。 ロックフィッシュ。クールの隣のビルの二階。ここは、大阪キタのお初天神サンボアの流れで、その更に源流の北新地サンボアの創案した、冷やしたソーダで割る氷を入れないハイボールを、北新地サンボア銀座店とほぼ同時に開店提供しました。ツマミというか食べ物のメニューが豊富で、缶詰や既製品をうまくアレンジして、ヴァラエティ多彩です。マスターにはその方面の著作が二冊あり、ハイボールブームと偶然タイミングが合い、いつも混んでいます。 5517。カクテルバーとしての風格、雰囲気は格別です。高い酒を使わないでハイレベルの味を出すのがカクテルの技という、チーフの信条は著書『銀座バーテンダーからの贈り物』通り、そこに記されたカクテルのヴァラエティが楽しめ、しかもお値段はリーズナブルです。チーフの稲田さんは八十二才で、いい仕立てのバーコートが似合う紳士ですが、怖いときは怖い。部下を躾けているときなど。 モーリ(毛利)。外堀通りの南。あるビルの上の方。解りにくくていつも迷います。マスターは銀座ベテランバーテンダー三人組の一人。若いバーテンダーたちが修業に入ってるから、誰に当たるか運次第。マスターの出勤は早くないです。 こう見てくると、銀座は町として腰が据っている。町の中の町です。武蔵野の原生林の名残をとどめている皇居吹上御苑から来る蜜蜂の蜜を採り、使っている町。商品の質は高く、店の質も高い。丁寧で愛想のいい店、とっつきの悪い店、どっちも江戸っ子、都会人のシャイネスからですね。そんなサービスの本質はカウンターバーとカウンター割烹にある。一人にしておいてくれ、そして気を配ってくれてます。京都の宮川町の南端の笹舟というカウンター割烹、息子さんが手伝うようになったので後継者できたね、とご主人に言ったら、「あきまへん、料理しながらお客さんと会話できまへん」と一刀両断。つまり、そういうサービスの商売がカウンター割烹の本質なのでしょう。 さて、銀座から渋谷へ。 コレオス。かつては109の上にあり、コレヒオといった。今は文化村通りからスペイン坂へ向かう通りのビルの上にあります。ここのマスターは山王ホテル出身。マティーニが独特。最初は何作ってんのかと思いますね。ジンをタンブラーでキンキンに冷やし、別に縦長のグラスをキンキンに冷やして注ぐ。強烈なキック。酔います。下手すると足腰を取られる。 渋谷は変わりました。こんなに変わった町はない。道玄坂の上、円山町、神泉あたりが僅かに昔の名残をとどめています。静かさと賑やかさ、灯りの暗さと明るさが魅力的に混じっている町でしたが。 新宿は感じが変わりません。街道の宿場が繁華街になった面白さが依然として残っています。新宿御苑はかつての大名屋敷、西口公園はかつての浄水場であり、その前は幕府火薬製造水車場でした。大きな古い空間が、そのまま残されているからかもしれません。 バー、ドンキホーテ。角筈(つのはず)の交番近く。ここは区役所裏の「いないないばあ」の直系。いないないばあ時代の有名マスター末武さんの子飼いで、のちにスペイン料理店まで出した末武さんの実質コックをしていたマスターだから、食べるものが豊富。この藤田さんの得意な飲み物はジンリッキーです。 こう見てくると、歩きやすいのはやっぱり銀座ですね。高層ビルがないから圧迫感がなく、ビル風が吹かない。この歩きやすさでは、神田もそうです。神保町、小川町、戦前からの建物や町の佇まい。坂があるから歩きも変化に富む。バーも、山の上ホテルのバーはシティホテルのそれとは思えない落ち着ける小さなバーです。 落ち着きたい。町歩き、バー歩きはそんな気分が底にあるのかも知れません。 生まれた堺の町をアメリカ軍の空襲で焼き尽くされ、隣近所も幼な友達も黒焦げになるか離散。逃げた先の神戸、魚崎でやっと落ちついた翌日にまた空襲。富山へ逃げ、敗戦で大阪へ。10才の春から夏に、転校5回。飢えながら、あちこちへ身を寄せて廻った流浪のトラウマが、擬似故郷を無意識に探しているのかも。たまたま仕事がロケーションと、そのハンティング、そしてシナリオハンティングであちこち廻ることが必要で、それが偶然いい町に出会い、あ、イイとこだな、と思う。それが町歩きに私を誘い出している衝動かもしれません。次からは町いろいろを書きます。まず堺から。これは戦争を語ることになりそうです。空襲、機銃掃射のむごさ、田舎への疎開、窮乏と飢餓を。

April 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)III 仕事にまつわるいろいろ(その1)

脚本家専業になるまでのことは、「大船撮影所いろいろ」で書きます。 テレビ部へ企画・脚本担当で移っての最初の仕事は、土曜ワイド劇場『声』(松本清張)の脚色でした。この枠はできたばかりで、企画も視聴率も安定せず、また一時間半(当初はそうでした)という長さは、テレビで育った脚本家には書き辛く、映画出身の脚本家には食い足りないという感じで、書き手が安定供給されず、そしてまた松本清張という作家は、その題材の独創性、そして日常リアリティの濃さを買われてテレビ化はされていたが、ミステリーが本質的に持つプロットの強さ、その独自のオリジナリティはテレビでは生かされず、当然ドラマとしていまいちになり、視聴率も取れないとされていたのです。 私の脚色では、プロットのサスペンス味を強く生かし、クライマックスの設定では原作にはない危機的状況を加えました。スタジオドラマにない映画的なそれが、テレビ的日常ドラマに慣れた眼には違和感があったのか、テレビ部長は「失敗作だね」と言いました。この評価はすぐにひっくり返ります。 清張作品の日常リアリティの濃さは私も感じており、ヒロインの友人役に探訪リポーターとして活躍していた泉ピン子さんを推薦しました。みんな、「え?」って感じでしたが、これは当たりで以後女優として大きく伸びたのはご存知の通りです。ただ、ピン子さんは主演の予定だった倍賞千恵子さんとの共演を楽しみに受けたらしく、倍賞さんがスケジュールの都合で出られなくなったのはお気の毒の至りです。 この作品は、視聴率が13%であり、10%前後で横ばいだった土曜ワイドとしては成功でした。清張作品としても、そのプロットの強さが初めて掘り起こされたのかもしれません。また、『声』という一字題名に『松本清張の』と付けたタイトルにしたのは、チーフプロデューサーの井塚英夫さんです。ワイドショー出身の町場感覚の鋭さに私たちはびっくりしましたが、以降、ドラマのタイトルでこのスタイルが流行し、いまや定番ですね。 続いてすぐ、私は必殺シリーズで京都に呼ばれました。『必殺からくり人』第四シリーズの『富嶽百景殺し旅』です。早坂暁さんが創った、山田五十鈴をメインとする殺し屋メンバーの物語です。葛飾北斎が富士の絵に隠した手がかりから、殺す相手を探すという仕組みです。早坂さんが一話しか書けず、メインライター不在で、しかもメンバーたちのスケジュールがきつく、脚本家たちが一つの宿に集められ、ひたすら書く必殺史上有名な「観音ホテル合宿」に放り込まれたのです。 浜松の名刹が京都宿泊用の別館を作ったのですが、場所が岡崎のラブホテル街の真ん中にあったため、ラブホテル化してしまったそうです。そこへ、朝夕二食付きで監督や脚本家を泊め、一度行くと二本は書くノルマを課すことで、必殺シリーズの脚本家たちは大量の脚本を量産しました。アベックも宿泊し、その様子を見ていたこちら側の人間も「こんなところで書けない!」と怒って帰った真面目な人もいたそうですが、祇園まで歩いて飲みに出られたので便利な宿でした。 最初に書かれた作品は『本所堅川』でした。江戸時代の事実談を基に、浮浪児を一ツ目小僧に仕立て、空き屋敷に商人を呼んで怪談仕立てで脅して金品を奪うエピソードを、浮浪児たちが食べるためにやっていたという設定にし、悪御家人に悪用されるストーリーにしました。この作品はスムーズに通り、簡単に完成したとのことです。また、この作品が必殺シリーズのフォトグラフィ美を確立した名カメラマン石原興さんの初監督作品でもありました。 すぐに、オカルト必殺シリーズ『翔べ!必殺うらごろし』が続きます。時代より早過ぎたといわれている、じつにユニークなもので、中村敦夫、市原悦子、和田アキ子などキャストラインも当時異色でした。だが、視聴率はしばしばシングルで、遂に必殺シリーズ打ち切りかどうかを賭け、続くだけ続けようと『必殺仕事人』が始まります。そして、これは84回、足掛け3年に及ぶシリーズとなり、必殺復活を果たすのです。 チーフプロデューサーの山内久司さんに、「変えよう」という強い意志があったと思えます。一度見たら忘れられない強い現実感、殺す、という具象的行動のストレートさ、そのテクニックの奇抜さ。そういう時代劇は空前絶後で、しかしそのアルティザン性の濃さでマニアは深く存在したが、観客層の広さはなかった。そこを変えようとしたのではないか。殺しへの出発の音楽が、闘牛士の登場のようなファンファーレに変わり、そして若さのヴィヴィッドさ、色っぽさを持つキャストが加わる。脚本家や監督の顔ぶれにも変化をもたらしたかもしれません。現代のドラマの人や新人が増えています。 私についていえば、『仕事人』で担当した最初のものは、このシリーズ初の視聴率18%。中村鴈治郎、山田五十鈴両元締めの夫婦喧嘩、決闘沙汰というオイシイ設定の回だったせいもありましたが、必殺再構築に多少の貢献をしたようです。 土曜ワイドは模索の時期、必殺は変革の時期に、それらと出会えたのが脚本家のスタートとして幸運でした。更に社員ライターで脚本料が安かった。確か必殺が6万、土曜ワイドなど2Hが12万。これは助監督が映画の脚本を書くと15万だったのに準じたのでしょう。この事は、数年やってる内に必殺の制作費が万年赤字だったのを消すほどのプラスを松竹にもたらした。必殺シリーズは制作費が安かった。殺し屋の話というので有名スポンサーが付きにくかったと山内さんから聞きました。もちろん高視聴率番組になってからは違ったでしょうが。 さらに私の資質からいうと、空想力はあるが想像力が弱い。アイデアがキャラクター、ストーリーに育ちにくく、プロットになかなか達しない。日常性の強い、アクチュアリティに基づくドラマだと、ことに苦しい。しかし、いわゆるレシ(物語)の虚構性に基づく時代劇とミステリだとプラスに働いたようです。つまり土曜ワイドと必殺に、私は受け止めて貰ったのでしょう。 そして、この二つの路線をやってるうちに、新しい分野にも加わるようになります。そのあたりは次回から。

May 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)IV シナリオを書いてみよう(その1)

自分は映画ともテレビとも関係ない。観客として関わるだけだ。シナリオなんか書かない。書けない。関係ない。これが普通の感じ方、考え方でしょう。 これが普通の感じ方、考え方でしょう。 また、ちょっと珍しい仕事だな、と思うこともあるでしょう。例えばバーなんかで隣り合って、こっちがシナリオ作家だ、と判ると一瞬話がとぎれる。まじまじ見られてしまうときもある。話の接ぎ穂で会話を続けることになって、どんな仕事だろう、という感じの質問になる。ここでの代表的な問いはどんなか紹介しましょうか。 ・セリフも全部書くんですか? ・1時間のドラマは1時間で、30分のドラマは30分で書くんですか? ・どうして話を思いつけるんですか。不思議です。 こう書いてみると、分かってないなと思ってしまうかもしれません。しかし、これ、かなりシナリオの本質に触れているんです。 セリフはもちろん書きます。シナリオの大切な仕事です。この質問は実は、セリフにリアリティがあるかどうか、ドラマにリアリティがあるかどうか、というポイントを無意識に指摘しているのです。 1時間のドラマを1時間で書けるわけがない。どんなに速筆でも。小津安二郎は2時間のシナリオを書くのに1年かけています。この質問は、ドラマを時間に感じているからこその質問だと思います。そう、ドラマは《時間》です。絶対的に過ぎていく時間こそがドラマのベースです。 どうして話を思いつくか、発想するか。これはドラマには必ずストーリーがあると感じているからですね。思いもよらない展開は、小説にもドラマにも絶対必要です。プロットと呼ばれる、進行する止まらない展開。 3つの質問が、シナリオ、ドラマというものの本質に無意識に触れている、迫っていることがお解かり頂けたでしょうか。まぁ初対面の会話からは、そこまで話は深まらない。映画やテレビドラマについての雑談、好き嫌いなどで盛り上がっておしまい。でも交流して会話が深まると、こちらも具体的な映画やテレビドラマの話をする。また自分のやった作品の話もする。 ここいらで、関西、ことに大阪では必ず出る質問がある。 「それで、年、ナンボぐらいになりますか?」 ずばり、稼ぎのことになる。大阪以外ではあまりそこまで話題にしませんね。 何回かそんな目にあって、友人の大阪人にその話をしたら大いに笑って、そして「それでナンボになるんや」と来ましたね。これでまた大笑いになりました。 さて、そこまでの会話に至っても、シナリオを書いてみたいなと言い出す人はあまり居ません。いや、殆ど居ない。むしろ、映画の話が深まったら、映画撮ってみたいなという人は案外多い。 なぜだろう? きっと、映画はカメラがあれば撮れるし、撮れば写る。人や物や景色が写る。しかし、シナリオを書くというのは結構技術を要するだろう。そう無意識に感じているからではないか。 書くという行為の中では、日記とか自分史などといった《記録》は取っつきやすいと、感じるものです。 芝居を書くのもドラマを作るという点では同じですが、設計、プランニング、構成、シーン分けなどという取っつき難い技術が、シナリオには沢山要求されるように思えるのでしょう。 芝居という舞台に限定された表現、その限定の面白さ、目の前の生きている人間がドラマを演じる面白さは取っつきやすい面があります。いいキャラクター、いいドラマを発想できれば、戯曲はシナリオより書きやすいかもしれません。 シナリオの難しさは、場所と空間、そして時間をどこへでも飛ぶことが出来るという、映画という表現の一番得な美味しい在り方。それを組み立てて、短いので30分、長くてだいたい120分から180分という《時間》の中に収めなければならない。つまり、時間と空間を超えられる自由と引き換えなのですね。 そして、シナリオから映画を創っていくとき、現実を絶対に超えることはできません。その映画が撮られる現代という、同時代性を超えられない。映画は連続写真であり、フォトグラフィーやビデオというものは目の前の現実しか写せないためです。つまり、その時代のリアリティを超えることはできません。 例えばアニメですら、初期のディズニー、フライシャーの時代と今ではまったく違う。これもその時代のリアリティを超えていないのです。『イエローサブマリン』は『白雪姫』『バッタ君街に行く』の時代には作れなかった。 ということで、次回はいかに《映画》は生まれたか、いかにシナリオが生まれたか、を語ってみましょう。 そして、シナリオを書くという技術なんか要らないよ、カンケイないよ、という声にはこう答えましょう。 ケータイやスマホで簡潔で面白い話を語る。それが技術なら、その技術の芯にはシナリオと同じ発想があるよ、と。また、映画やテレビドラマが面白く、深く見られるようになるよ、と。 以上が第一回です。なお、このシリーズは私がシナリオライター志望者に向けて書いた『シナリオを書く』(シナリオ作家協会発行)という本を、一般読者向けに柔らかく解きほぐしたものです。

June 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)V 大船撮影所いろいろ(その2)

入所するとすぐ、その時、クランクインしてた組に一週間ずつ付かされる。その最後が小津組でした。小津さんの第一回カラー作『彼岸花』。余談ですが、大船では監督を「先生」とはけっして言わない。「さん」です。助監督からスタッフの端に至るまでです。ここだけの善き習慣かも。 さて、初日。まずご挨拶。 「何年生まれだい」 これが私への第一声でした。時代は昭和です。 「10年です」 かしこまって答えると、 「俺はもう監督になってたなぁ」 これが第二声。 背が高く白いピケ帽と白シャツ、白ハンカチを欠かさなかった。汗かきでいらした。小津組の撮影はいつも夏。脚本に一年かけるから、そういうサイクルになる。ダンディという言葉がぴったり。男っぽくてさりげなくおしゃれ。そしてバチェラー。モテたでしょう。ユーモラスでシャイネスがあって言葉遣いが細やか。男好きのする男。 朝が早かった。一番下っ端の見習いの私がステージに入っていくと、いつももう小津さんがいた。 セットに胡坐をかき、身を低くしてじっとメインポジションを探っていた。あの有名なロウポジの姿勢ですね。 「お早うございます」と挨拶する。「お早う」と太い声が返ってくる。なんとなく居辛くなってつい表へ出てしまい、そこでスタッフを待つ。そんな毎日でした。 撮影が始まる。ポジションが決まりカメラが据えられる。ベタと呼ばれる一番低い木の三角台か、もっと低い赤塗りの蟹足と呼ばれる金属台。畳に座る日本人をフルショットで撮るのにぴったりな小津ロウポジ。カメラポジションが決まると、助監督がさっと俳優の位置へスタンドインに入る。次に灰皿や湯呑のような小道具の位置を決める。 「灰皿もうチョイ、山、鎌倉。湯呑、チョイ駅、チョイ東京」 セットでの指示は左右や前後が咄嗟には分からない。カメラから見てのそれか、被写体のそれか、必ず一瞬迷う。大船のメインステージは小山を背後に、大船駅に向かって建っているから、「山」「駅」「鎌倉」「東京」という方向指示の小津組語が生まれたのです。洒落てて解りやすい。 東京の下町っ子、カメラマンの厚田雄春さんあたりの機知かも知れません。さて小道具の位置の決まりに、赤鉛筆で印を点ける。ファーストカットの引き(大抵はフルサイズ)のあと、人物への寄り(バスト)のカットバック、今度はどんでん(真逆)に入っての引き。そのときまた小道具の位置が変る。これは青鉛筆で印。だから助監督は全員、赤と青が尻合わせになった色鉛筆を常備していた。 続いて、テスト。数回から数十回。特に指示や要求が入るわけではなく、繰り返す。 率直に言って、「なんで?」と思いました。繰り返す意味が掴めない。NGでなく修正らしいが解らない。 そのセットに入る前に、そのセットのシーンを読み合わせするリハーサルが必ずある。これも小津さん、殆ど指示を出さない。ただ、疑問や質問のセリフで語尾が上がるのを嫌い、厳しく排除したらしい。文学座の俳優中村伸郎の回想に、そうあります。 『彼岸花』の読み合わせでは、浪花千栄子にただ一ヶ所、脚本に「無慈悲な」(ムジヒな)とあったのを、「ムヒドウな」と大阪の日常弁で言ったのを、脚本通りにと指示しただけでした。私には、田中絹代が浪花千栄子のセリフのたびに声を立てて笑うのが気になりました。浪花千栄子は脇役として売り出していた頃で、舞台で叩き上げた芸が光り、この京都の旅館のお内儀さん役もとてもヴィヴィッドで面白かった。田中絹代は主役クラスから脇役へゆっくりスライドしていて、そしてセリフの硬い人だったから、この読み合わせでも精彩を欠いていた。女優はそんな状況に敏感なのもので、笑うことで”格上”を示したのかもしれません。 そんなことをしなくても、田中絹代は大スターであり、この作品でも存在感を示していたのに。(まあ小津さんと田中さんは、監督協会企画『月は上りぬ』の監督を協会長小津さんが田中さんに委嘱し、溝口健二が難色を示したトラブルがあったあとで、微妙な緊張を田中さんが感じていたのかもしれません) さて、この小津初カラー作品は女優たちが実にキレイです。山本富士子、有馬稲子、久我美子、桑野みゆき。イーストマン・カラーを敢えて避け、地味な発色のアグファを使った厚田カメラマンの選択が生きた。 厚田さんは自称「カメラ番」。ルーペを小津さんが独占し、厚田さんは後ろでライティングを指揮し、止むを得ないときだけ覗かしてもらっていた状況を、ユーモラスにそう言ったのでしょう。 小津さんはいつも自宅から小道具を持ち込むのですが、この映画ではそれがトラック2台分。赤いものが好きで、このメインセットでも、ダンスクの赤いヤカンが印象的でした。このヤカンでは、のち大映で『浮草』を撮ったときに、カメラマン宮川一夫との面白いエピソードを生みますが、それは後ほどです。すべて小津さんの好みで統一され、なんせ、重役ではあってもサラリーマンである登場人物の家に、岸田劉生の絵が掛かっていたりする。扱いも保管も大変だった。畳の縁に至るまで自分で決める。普通の家ではまあ、黒か茶色か地味な模様、でも小津さんの好みはカラフルで料亭のようでした。 10日間しかかからなかったので、ロケには行っていませんが、エキストラの衣装の色、遠景の家の物干しの干し物の色まで指定した、と聞きました。当時のカラーネガの発色はムツカシク、色温度計測計でライトの温度、太陽光の温度といちいち測っていました。ロケは10時から15時までぐらいしかできなかった! いちばん驚いたのは、セットやロケの店の看板の文字をすべて小津さんが書いたことです。独特の書体ですから、同一人が書いたとすぐ判る。こうなるともう、リアリズムなんてモノじゃない。良き小市民リアリズムの人、なんて、イギリスなどで評価されているらしいけど、そんなものじゃない。すべてが自分の好みで統一されている快さです。ロウポジ、オールフィックス、カメラのレンズは50ミリ。フェイドイン、フェイドアウト、ワイプ、オーヴァーラップなどのオプティカル処理なし。カットバックの俳優の視点、お互い少し左右を見ることで見合ってる感じを出す、いわゆる目線も、殆どレンズを真正面で見る。まるでスチール写真のように。そして編集では、セリフの言いだしまで6コマ、言い終わって10コマで切る。風景のインサートショットはすべて7フィート。このリズムで、小津作品は進んでいく。小津リズム。このリズムの快さを、日常性と勘違いしてやしないか? 本質的にはライトコメディの作家です。エルンスト・ルビッチ(ビリー・ワイルダーの師匠)を好んでいたそうです。初期の作品は都会的な洒落たライトコメディを目指し、日常リアリズムによってペーソスが濃くなり、シリアスドラマの色が濃くなる。太平洋戦争後、シリアス味が濃くなりすぎたのを、脚本を野田高梧と組むことで修正。さらに原節子という良きマドンナ、笠智衆の質朴な男っぽさを得、『晩春』という新しい世界を創る。ヒロインはシリアスだが、脇がコミカルな味を出す。 かなりハイトーンなそれを許されたのは、杉村春子と中村鴈治郎。キャラクターを決して逸脱しないユーモア味。それは、東宝での『小早川家の秋』の森繁久弥、山茶花究などの軽演劇の流れの人々の人工的な軽快さとはまったく異なるもので、小津さんはそっちはあまり買わなかったらしい。 一説によれば、東宝で撮ったとき、森繁、山茶花が小津さんの旅館へ挨拶に行き(宝塚撮影所でしたから)、テスト一発で決める演技をしますから、なんてあまりテストをやらないでくれ、と暗示したらしい。そしてステージ入りのとき、東宝のトップ俳優ってことで森繁氏が取り巻きも賑やかにやって来た。すると、セットで撮影中だった小津さんが、台本を膝に叩きつけて「このステージにうるさいネズミがいる!」と一喝。満場シーンとなってしまったとか、テストで例の森繁節で面白可笑しくやってのけたら、「いいねえ森繁さん、上手いねえ。おい、誰か、小津組の台本あげて」とさらっと小津さんに言われ、上げも下げもつかなくなったとか、そんな噂が大船へ流れてきたものです。 まんざら噂だけじゃなかったらしく、のちに『おったまげ村物語』(堀内真直作品)で大船へ来た森繁氏、ロケ地の車の中で「あの小津さんって人、どういう人?」と、製作助手との雑談の中で不快げに触れた、と言います。 そもそも、小津組のセットは静かなのです。所長などのお偉方も静かに入ってくる。山本富士子の出演初日に、大映社長永田雅一が来たときも、静かに入って静かに見ていたのでした。(ドスの利いた貫禄の人でした。)それが映画人の神経でしょう。 さて、そういう組だから、新入りの私なんかにカチンコなんか打たせてくれない。小道具だって岸田劉生の絵なんか触らせてくれない。スタンドインだってやらせてくれない。慣れた助監督しかできない。見習いの私は、もっぱらセットの壁の取り外しとか、庭木の移動とかに走り回っていました。 今、考えてみるといろいろ分かることがある。十数回に及ぶテストは、俳優を小津リズムに同調させていたのですね。このリズムは小津さんの中にしっかりとあり、例えば編集でのカッティングで、ラッシュのとき、編集の浜村義康さんに、「もう1コマ落とそう」とよく言っていた。俳優の演技のあるカットだけでなく、風景のカットでもそうなのです。 この1コマ2コマという感覚は、編集技術者は判る。良きスクリプターも判る。そして大船の助監督は、シートマンという仕事でのスクリプターをやらされるので、判る感覚がある。実例で言うと、テレビでの映画のオンエアは、それがフィルム作品だと必ず音のずれが生じます。フィルムは光学印画だが、ビデオは電気印画だから、基本的に同調しない。シンクロナイズしない。そのずれはフィルムのフレームで言うとたった1コマなのですが、映画そのものに僅かな音ずれ、例えばロケーションシーンの、セリフのアフレコ(アフターレコーディング)での音ずれがすでに存在していたら、ずれは眼に立つほど大きくなり、俳優の喋る口と音が僅かに合ってないことが一般視聴者にも判るほどになる。これはもう3コマ4コマのずれになっているのです。 こういうコマ数にまで及ぶ細やかさが、小津リズムの根底にある。ライトコメディの味わいの上でも、その細やかさがあり、お住まいが鎌倉になってからは、どうしてもプチブルジョアの世界になってしまう。『早春』はすべて東京だし、どの作品も東京の設定は多いのですが、味そのものが「東京の現代」でなくなってしまう。それはご自分でも感じておられたのではないか。思い切ってコミカルな味を強くした『お早よう』は、子供のおならごっことか、人物も大泉滉、泉京子のチンドン屋夫婦とか、押し売り撃退の名人婆さん高橋とよとか、ほとんどハイコメディなのですが、でも、「現代」ではない感じがどうしてもある。恐らく、「次」を模索しておられたと思う。 「連句歌仙のような映画を」と言われたこともあるらしい。長短三十六句を連ねて虚構世界を作る歌仙は、日常性とハイさがともに存在し、そしていい句ばかりではなく、遣句(やりく)というルーティーンな句を作る巡り合わせになる時もある。人生そのものです。果たして、小津さんの「連句」映画はどんなものになったのだろうかと思います。 まだ尽きませんが、小津さんについてはこれまでとし、大船話も今回は小津さんで終わっておきましょう。

July 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)VI 町歩きいろいろ(その2)

生まれて10才まで、国民学校(小学校をそう言ったのです)五年生まで育った堺のことを書きます。この話ではバーは出て来ません。子供時代ですから。そしてそもそもバーを見かけない。似合わない町、なのかも知れません。とても古い町、大阪より古い町ですから。宿院という古い盛り場のあたりは、アメリカ軍の大空襲で根こそぎ焼け壊滅したし、映画館などのあった遊郭に繋がる新開地・龍神あたりも黒焦げ地獄になって壊滅。東の、高野線堺東駅付近が焼け残って現在の盛り場ですが、歴史が浅い分だけ奥行きもない感じで、そもそもビジネス街もなかったのが今やっとカタチになりつつあり、都市としてまだ中心がない感じです。 もっとも大浜や浜寺の白砂の海岸を埋め立てて大工業団地にしてしまった、そっちが中心なのかも。このプロジェクトを推進した、戦中から戦後にかけての市長は河盛安之介。旧河盛家は宿院筋南側に大きな邸があったと記憶しています。フランス文学者河盛好蔵はこの家の出の筈です。歌人与謝野晶子(鳳晶子)の実家駿河屋(和菓子商)も、宿院山之口筋にあったので碑が残っています。 戦国時代から港として栄え、堀割で囲まれた要塞都市として傭兵もいた面影は、今も旧港とそれに続く堀割、旧燈台に僅かに残っています。それと妙国寺から綾之町にかけて焼け残った商家など。 それと、人。背が高く堂々たる体躯、大きい眼。はっきり南方の中国人の血が残っている男性をかなり見かけます。京都から大阪、堺、と南下すると、はっきり北国から南国へ来る感じがあります。顔も、京都は貴人から町衆まで絵巻物に出てくる顔だし、大阪は男女ともに文楽人形の顔です。堺は中国南方系、ひょっとしたらポルトガル系まで父祖にいそうな顔つき、体つきと出会う。うちの祖父、父、叔父も眼が大きく、父と叔父は背が高かった。一番立派だったのは上の伯母の夫、石割松太郎(毎日新聞社員、文楽研究家、早稲田大学教授、「大衆文芸」というネーミングを創始、そのジャンル確立に努めた)です。写真で見ると巨眼巨躯、鼻眼鏡を高い鼻に掛け、まるで西洋人! うちの家系でもう1人演劇史に名を残しているのは、曽祖父の卯平、開口神社の門前に卯之日座という芝居小屋を経営。川上音次郎の『経国美談』『板垣君遭難実記』を日本で初めて舞台に掛けた。新派の発生の糸口となる公演です。この卯之日座は一、二度映画を観に連れて行かれた。もう映画館になっていて吉田家とはとっくに離れていたが、それでも顔パスで祖母らと入った。二階はまだタタミで枡席だったのを覚えています。 ご先祖話をもう二つ。ひとつはうどんすき「美々卯」。この本店は堺、宿院にあります。この「卯」という字はうちの家系から養子に入った人物から由来している、というのです。うちは代々「卯」を名前につけてた。私の代で途切れるのですが、父は一字名前が好みだったから私に「卯」とつけようとしたが、どう読むか困って「剛」にしたらしいです。 もう一つは、天誅組隊士のエピソード。うちの先祖の家へ大和挙兵で敗れた天誅組の、あちこちへ敗走するひと組が夜中に戸を叩いた。何か食い物商売だったらしい。身を清めたいから水を使わせてくれ、というのです。亭主は怯えて表戸を押さえて入れようとしなかったが、妻が気丈な人で気の毒がって入れた。傷で血だらけ泥だらけの身体を井戸水で洗い、そしてもう縄目を受けての刑死か切腹だから、と肌付け金を礼にみんなが置いて行った。その金で風呂屋の株を買い暮らしがしっかり立つようになった、という言い伝えがあり、事実、親戚筋に風呂屋があります。お金持ちで、ご当主は立派な顔と体形です。 美々卯と同じ宿院あたりの、昔からの名店を見てみましょう。蕎麦の「ちくま」。ここの熱盛り(あつもり)は、丼に卵の黄身だけを四、五個、熱い蕎麦に割り入れて掻き混ぜ、それで食べる珍しいものです。芥子餅(けしもち)の「小島屋」。薄皮、上品な甘さの小ぶりの大福の、その皮一面に煎った罌粟の種がまぶしてあり、風味のいいものです。昔は数軒あった記憶があります。 余談ですが、泉州平野は罌粟の名産地でした。満州事変、上海事変、支那事変と繋がる中国植民地化戦争、その諜報・謀略の特務機関費を捻出するため、満州などでの罌粟栽培、阿片、モルヒネ製造販売を強行、その協力者としての河内の栽培・精製業者を軍はスカウトした、そんな歴史もあるのです。 千鳥最中。千鳥型の皮に濃い餡を入れた大型のもの。これも何軒かあったが、今もあるのでしょうか?大寺餅(おおてらもち)。宿院から山之口筋という繁華街へ入ると、突き当たりに大寺(おおてら)さんがある。その門前で売っていた甘い黄粉をまぶした餅。今もあるのでしょうか?大寺さんというのは開口(あぐち)神社で、神仏習合をはっきりかたちに残し、仏塔のある神社です。アメリカの空襲で焼けましたが、再建されています。 焼けなかった寺社で有名なのは、この少し北の妙国寺です。明治初年、神戸でフランス兵を斬った土佐藩士が切腹した寺で、寺も名物の大蘇鉄も空襲で焼けずに残っています。このあたりから北が、空襲の災害に遭わなかった古い街です。そして南も、焼け残った有名な寺があります。南宗寺(なんしゅうじ)です。戦国時代からの名刹で、利休たち茶人や商人(貿易商)と縁が深い。旧堺を囲む堀の残りがその横にあった、いや今もあるはずです。 子供というのは神社や寺と縁のないもので、私はずっと入ったことがなく、そのまま現在に至っていますが、堺の子供なら知っている不思議な伝説と遺物がある。徳川家康はこの寺の傍で殺され、本堂の床下に密かに葬られ墓があるという伝説で、小さな墓石が本堂の床下に今もある筈です。大阪夏の陣のとき、本陣のあった平野郷から駕籠で大阪へ急ぐ家康を、向うから馬で来た後藤又兵衛が、垂れを降ろした駕籠を怪しみ槍でひと突きして通り過ぎた。家康は即死、南宗寺へ密葬され、あとの家康は替え玉。この伝説はうちの祖母も言っていたから、堺では常識でした。南条範夫や隆慶一郎が小説に書く前から、家康は替玉だ、と。 この南宗寺の傍に残っていた堀の南端(北端は知りません)は、我が家の前にあった。そして、西の方に、その堀と港をつなぐ堀があり、その西の端は旧堺港へ開いていた。この旧港は石を積んだ古い防波堤で囲まれ、外海(といっても大阪湾ですが)への出口があり、堤の端に燈台があります。それは明治に建った(あるいは建て直した?)ままの姿で、今も文化財として残っています。 港から南へ、白砂のきれいな砂浜が広がり、大浜(おおはま)といいました。海水浴場になっていたので、子供の頃よく親に連れられたり、学校の水泳訓練で来ました。家から近く、弟をおぶった祖母と夕陽を見に来たり、夜、父とボクシングの試合を見に来た記憶もあります。水族館のアシカの啼く声が、夜、ウチまで聞こえてきたものです。 その水族館、公会堂、そして潮湯という沸かし湯温泉のあるレジャーパーク、大浜公園は浜辺に隣接していて、松林や和風庭園もある広いスペースです。かつては、大浜少女歌劇団というのが公会堂で定期公演をしていたそうです。戦災からは焼け残りましたが、水族館は空っぽで、潮湯も営業できず、レジャーパークとしては戦災後、全く機能を失っていました。しかし、焼け跡の中で、ともかくのんびりできる場所でした。運動場では野球の試合もあり、アメリカ兵がよく散歩に来ていました。 この公園の北の外側から旧港(もう漁港になっていた)の傍まで、海に面した料亭が続いていました。芸者もいたらしく、谷崎潤一郎の大阪や神戸を題材とした小説などで、「大浜へでも行こうか」とシケ込む場所として出てきます。芸能人(桂春団治)なども来たらしい。当時の芸能ニュース記事に出てきます。漁港につながっているから魚がよかったのでしょう。 この大浜漁港では、昔から毎夏、夜市が開かれます。魚のセリ売りが公開され、それがこの夏祭の名物です。町では蒲団太鼓と呼ばれる山車が太鼓を鳴らし、「ヨイトヨヤマッカ、ドッコイサノセエ!」と掛け声も勇ましく練ります。岸和田のダンジリ並みです。屋根の代わりに紅絹(もみ)の蒲団を重ねた風変わりな山車(だし)です。これがどこの神社のお祭りか、覚えていません。そもそも宿院というのが、どこかの神社のお旅所ってことですが、それがどこのか覚えていない。鳳(おおとり)神社=大鳥神社というのが堺の南端にあり、立派な古社なのでそれかもしれません。(編集注:住吉大社のお旅所。宗教が苦手だったようです。) 鳳の海岸を羽衣といい、歌枕の羽衣の松、天女伝説と関わりがありそうです。その浜辺が白砂青松で有名な浜寺公園。明治の初年、殖産開拓で伐採されようとしたのを来合わせた元勲大久保利通が惜しみ残させた。それが今では、松林は辛うじて残っているが、美しい白砂の浜は失われ、海は埋立地のコンビナートが、大浜から浜寺の南の高石市まで続いています。浜寺の南は、これも古今和歌集と新古今和歌集の歌枕の高師の浜でしたが、コンビナートで失われました。 戦後の一時期、私は高石市(当時は高石町)に疎開していて、その浜でよく水遊びしたものです。浜寺も大学一年の頃、夜飲んでてタクシーの相乗りで水遊びに来、パンツ一丁で海に入った記憶があるから、まだ白砂の浜はあったのです。埋立による開発は、空襲で壊滅した堺の再興のためだったのでしょう。しかし、古くからの町の中心部が寂しいままで埋立地のコンビナートが巨大な今の堺、それが真の再興なのか。 この事業を始めたのは、先に述べた河盛安之介市長。完成したのはその助役で、後任の市長になったヒトです。この二人が浜寺と高師の浜を消滅させたのは確かで、僅かに残るのは戦前、高級住宅地として開発された浜寺公園町、そして高師浜のお邸町のみです。大正モダンというのか、しゃれた家並がまだ残っている筈です。 さて、旧堺を壊滅させたアメリカ軍の空襲。私の戦争体験の最大のものです。そのことを話します。昭和十九年(1944)、戦争が身近に迫った感じがし始めたのはその年からでした。 主食の米の配給が一日の必要量とされた1人3合に満たなくなり、玄米の侭で水で膨らませて炊きました。楠木正成が千早城へ立てこもって、北条氏の大軍と長期戦をやったときの炊き方とかで、楠木飯(くすのきめし)なんて勇ましい呼びかたでした。おかずもアンモニア漬けで保存したスケソウダラの切り身とか、大きいがスジばかりの農林ナントカ号とかいうさつま芋とかヒジキとかだった。四十二歳で軍需産業(松下造船=のちの三洋電機)勤めで、徴兵からの絶対安全圏だった父にも、補充兵という臨時徴兵の召集があることになり、毎晩軍人勅諭を暗誦して覚えていた。 主食の米の配給が一日の必要量とされた1人3合に満たなくなり、玄米の侭で水で膨らませて炊きました。楠木正成が千早城へ立てこもって、北条氏の大軍と長期戦をやったときの炊き方とかで、楠木飯(くすのきめし)なんて勇ましい呼びかたでした。おかずもアンモニア漬けで保存したスケソウダラの切り身とか、大きいがスジばかりの農林ナントカ号とかいうさつま芋とかヒジキとかだった。四十二歳で軍需産業(松下造船=のちの三洋電機)勤めで、徴兵からの絶対安全圏だった父にも、補充兵という臨時徴兵の召集があることになり、毎晩軍人勅諭を暗誦して覚えていた。 もっと怖かったのは、用紙不足でタブロイドの朝刊だけになった新聞(祖父以来とっていた朝日?地元紙?)に、女子供も戦え、という特集で、アメリカ兵は背が高いから背後から忍び寄り、睾丸を蹴って気絶させ、竹槍で突き殺せ、という囲み記事が絵入りで(モンペに防空頭巾姿の女性が、アメリカにそれをやる図解)載っていたのを読んだ時で、心底から怖かった。 翌年二十年の春、大阪が最初の空襲を受け北の空が一面真っ赤になり、夜なのに本が読める明るさでした。あくる日、貧しげな老爺が袷に防空頭巾だけで大阪から逃げて来ました。すぐ傍の阪堺電車大浜線の踏切番小屋でうずくまっていて、黒山の人だかりだった。堺市民が初めて見る戦災被災者だったのです。 そして新学期に全学童に戦時疎開が発令されます。学校ごとの集団疎開と、各家庭ごとの縁故疎開。ウチは郊外の金岡(国鉄阪和線金岡駅・今の堺市駅の向こう)の豆塚に遠縁の農家があり、その納屋へ私と次弟が祖母と3人で身を寄せ、金岡国民学校へ転校。私が五年生のときでした。以降、二度の空襲による戦災で、神戸、富山県、敗戦での堺への帰還と、五年生の1年間に五度の転校です。学力や身体能力の発育に支障が出てしまいます。算盤が出来ない。泳げない。自転車に乗れない。対人関係がブツブツに切れて実らず、他人が怖い。転校するたびに摩擦やイジメを受けるからです。早生まれのチビでしたし。 その二十年夏、学校が休みに入る直前の7月10日、堺の空襲で最大の第三次空襲に遭います。 夜、空襲警報のサイレンで外へ出た私たちは、堺の空が真っ赤なのを見ます。凄まじい轟音と閃光。青白いサーチライトに照らし出されて、巨大爆撃機B29の編隊が飛んでいます。対空砲火はなく、迎撃する戦闘機もない。敵機の落とす照明弾が、更に青白い光を放ちます。間断なく聞こえる音は、敵機の落とす「モロトフのパン籠」と呼ばれる焼夷弾の収束体の落下音です。鋼鉄の六角の筒状の弾が束ねられた物が投下され上空でバラける。そのザーッザーッという散乱落下音なのです。おそらく黄燐ではなく、原始的なナパーム弾だったのでしょう。火力は恐るべきもので、中の液体を1滴でも受けたら骨まで燃え抜けると言われていました。 翌年早々、祖母と弟の3人で家の様子を見に出掛けたときは、珍しい光景でも見られるかなぐらいの気分でした。ガソリン欠乏ゆえの木炭バスももう走っていず、家へはいつも徒歩でした。反正、天皇御陵を越えて南海電車高野線の堺東駅、そこまでが郊外で、そこからは市内です。踏み込んだ途端、そこはもう被災地で、焼け跡が煙を上げていました。 中心地の宿院あたりに達すると、一面の焼野原で被災者の群れが郊外へ脱出し続けていて、そのうちに焼死体が見えてきたのです。最初は人間に見えなかった。材木の焼けたのだと思った。人間だと分かってからは恐ろしかった。それは苦悶する形のまま、真っ黒に燃え切っていた。縮まって小さくなっていた。そして脂でギラギラ光っていた。恐ろしくて飛び回って逃げ、見ないようにして避けて歩いた。しかし、まだ火気が熱く残っている上を、それを見ないよう避けてては歩けないのです。そして、阪堺電車大浜線の、あの大阪の被災者を見た踏切を越えた時、家が跡形もなく焼失したと分かりました。 黒煙を上げて、焼野原が拡がっていました。唖然と見回した途端、今までとは比べものにならない恐ろしい焼死体の山を見ました。大浜線は南海電鉄龍神駅を鉄橋で越えていて、上が大浜線龍神駅になっている。そこへ登る階段の下が折り重なって焼け死んだ死体の山で覆われていたのです。 あとで聞くと、駅向うの龍神遊郭の人たちが陸橋の下のトンネルに逃げ込み、蒸し焼きになったらしい。トンネルへ入り切れない人や、こちら側の映画館街の人たちが階段の下へ避難した。その死体の山だったのです。もう見慣れた黒焦げの死体の下に、焦げてない死体があった。鮮やかなオレンジ色が異様でした。ひと目見てすぐ眼を逸らしたが、髪を振り乱した女の死体が多かった。みんな、全裸だった。焼夷弾の高熱が激しい旋風を起こし、衣類を吹き飛ばしたのですね。トタン板が、焼け焦げた木に飛んできた形のままで引っ掛かっているのをいくつも見ましたから。 陸橋のトンネルの中は天井まで死体らしき山で塞がり、黒煙を上げていて見通せなかった。その時、背後で鋭い泣き声が上がり、振り向くと、また別の種類の死体の群れを見たのです。大きな堀割が流れているその岸に、水に晒されたような不気味な青白い肌の、腹が異様に膨らんだそれが並んでいました。火に追われ、堀割に飛び込んで溺死した人たちだったのです。水を呑んで、腹が膨れ返っていたのですね。その一つに取りすがって、女の人が泣いていました。振り絞るような号泣。慟哭、というのはあれをいうのでしょう。 その泣き声に突き動かされるように、私たちは歩き出しました。大浜の方へ逃げてないかと、父母とまだ幼児の三番目の弟を探しに。そして別な堀割をそっちへ渡る橋の上で、弟をおんぶして群集に混じってやってくる母と出会ったのです。下半身は泥まみれで、上半身は首までズブ濡れの。家に焼夷弾が落ち、消火しながら父が先に逃げろというので逃げたが、火と煙で逃げ場を失い、その橋の下の伝馬船へ乗り移ったが、次々に人が乗り、船がだんだん沈み、首まで浸かったところで夜が明け助かった、というのです。 父を置き去りにしたと祖母が泣いて母を責めていたら、誰かが疎開前に私の行っていた英彰国民学校の講堂が焼け残り、被災者の救助をしているらしいと言ってくれ、そこへ向かいました。そこに集まり、手当てを受けている被災者の中を呼び廻っていると、父が出てきたのです。両眼は巴旦杏のように腫れて塞がり、両手は火傷の水ぶくれだらけでした。懸命に消火していると火勢で熱風が凄まじい旋風になり、呼吸も出来なくなったので夢中で走り、堀割に飛び込んで助かったというのです。父は泳げたのです。そしてそこで、私たちは別に住んでいた祖父と出会います。 祖父が助かった話はとても奇妙なものでした。逃げるうち、親とはぐれた子供が付いて来て離れず、仕方なくおんぶして逃げていると背中からその子が「あっちへ逃げろ、こっちへ逃げろ」と指示。その通りに火と煙の中を逃げ、助かったというのです。 それから数日間を、父の会社の寮になっていた大浜の料亭が被災社員を収容する臨時施設になっていた。そこで暮らしました。自宅の焼跡の井戸や防空壕に埋めた家財を掘り出していて、近所の人たちや友達の死を生き残った人から知ります。 記録によれば、この第三次堺空襲の死者は二千人、重軽傷者は1千人、消失戸数は二万戸、被災者は七万人でした。総戸数の4割と総人口の3割が被災し、堺は壊滅しました。たいした軍需産業もなく、軍施設も金岡の方に連隊と陸軍病院、それも精神病院、そして捕虜収容所があるのみでした。トラックで作業に出される捕虜たちと私たちは笑顔で手を振り交わしていましたっけ。そんな町がなぜ徹底的に焼き尽くされたのか。大阪の軍需産業の労働者が多く住んでいたから、だそうです。戦争でなく虐殺です。 このあと私たちは、神戸本山の軍需産業の社長だった伯父宅へ一時身を寄せました。そして、魚崎で借りた家に移った途端、また空襲に遭います。女子供まで狙うアメリカ機の機銃掃射にも。それは神戸の話になります。

August 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)VII 仕事にまつわるいろいろ(その2)

テレビ部へ移り、企画と脚本専属になった最初の脚本の仕事は土曜ワイド劇場『声』ですが、助監督時代とまたがっている仕事に『ご存知!女ねずみ小僧』があります。 プランニングでは、メインライター加藤泰、メイン監督工藤栄一だったのですが、すったもんだのクランクインの揚げ句、第二話から突然私が脚本に駆り出された。小川さんは美しい盛り、セリフも動きもキレが良く、アシスタント役の田中邦衛さんの役がなぜか役者が変わり、なんと三国連太郎さんがおいでになった。アシスタントではなく黒衣(くろご)である、という解釈をなさり、ホントに歌舞伎の黒衣姿で登場、大いにコミカルにおやりになるのだが、市川昆の映画『青色革命』のオカマ青年で大好評で、それのイメージがあるのか、ハッスルするほどオカマになり、小川さんたちから疑問が出たようです。 訳の分からない脚本直しが行われたり、小川さんの女中役の野村昭子さんや町方同心役の菅貫太郎さんが降りた(降ろされた?)り、トラブル続きだったのが安定したのは、小川さんと仲良しの井上昭監督、役者扱いの上手い大ベテラン松林宗恵監督が来てからで、以後私は第十八話から最終回第三十一話まで5本、まあ、メインライターになってしまいます。 仕事は楽しかったですね。こういうコミカルで御伽噺のタッチの作品は、アイデアが勝負だから楽しい。またテレビ部へ移って早々、あるプロデューサーがNHKへ紹介してくれて『早筆右三郎』という、江守徹がメインの瓦版屋のシリーズを書かせてもらいました。これも、新聞記者と編集部と販売店が一つになったようなグループの話で、楽しく書けました。鎌倉の縁切り寺を使ったのと、滝沢馬琴もエッセイで取り上げているUFOを題材にしたのと二本です。縁切り寺のはシリーズで一番視聴率が良かったとかで、原作者の小山内美江子さんから、「ツイてる!」と握手された記憶があります。 テレビ部での仕事へ戻ります。 『声』のあと、『顔』『犯罪広告』『紐』『種族同盟』と松本清張作品が続き、このシリーズに客が付き始め、視聴率20%に迫りだしますが、『声』で原作にないクライマックスを仕組んだのが枷になって来たのには苦労しました。松本清張の味と微妙に離れると感じたのですが、土曜ワイドという枠の性質上、局からはそれが要求される。言わば二律背反的悩みです。それと同じ苦労をしたのは、戸板康二の中村雅楽シリーズです。 歌舞伎の老優を主人公にしたユニークな連作で、これは松竹ならやれるんじゃないか、と企画したのですが、脚本作りは苦労しました。原作はすべて短編で、二時間ドラマに足らない内容です。そこで事件の出だしは『車引殺人事件』『車引』の舞台で、牛車を割って出てくる大ガタキの時平(しへい)が、車の中で死んでいた。それを使い、全体のストーリーは長編『松風の記憶』、クライマックスとラストは『鷺娘殺人事件』で作りました。題名をどうしようか、と思っていたら、またあの井塚英夫プロデューサーが大技をふるいます。なんと『名探偵雅楽登場!車引殺人事件つづいて鷺娘殺人事件』。あっ、と驚きましたね。 えっ、と不安になったのは、舞台で殺人が起こった話に劇場は貸せない、と歌舞伎座が急に言い出したことでした。これは、新橋演舞場が近々取り壊して新しい劇場にするから、と貸してくれて解決しました。次に、あっ、と私も驚き、原作者の戸板さんが驚喜したのは雅楽役のキャスティングでした。すでにテレビの一時間ドラマとしていくつか作られ、雅楽役は市川中車さん、小納戸容(こなん・どいる)のペンネームで著作もあるこの人と中村芝鶴さんがやっていたのへ、中村勘三郎(十七代目)という大看板を持ってきたのです。バリバリの現役の役者、それも大スター過ぎるので、原作と微妙な誤差がありましたが、結構な雅楽でした。 可笑しかったのは、これだけ時間かけて撮影して、たった一回、二時間放映するだけか、とご不満なご様子でしたが、テレビの視聴率1%は東京だけで6万世帯、20%だと1400万人以上が見ると聞かされると、俄然張り切り始められたことです。 「勘三郎さんとの共演、ということで、相棒の新聞記者に近藤正臣、刑事に山城新伍、と主役クラスが出てくれ、殺される悪役に伊藤雄之助、犯人役で鷺娘を踊りながら死んで行くヒロインに波乃久里子、実にいいキャスティングになりました。もうひとつ可笑しかったのは、雄之助さんが時平役で殺され、急ぎの代役を雅楽の勘三郎さんがやる、という設定の、その青隈の化粧が雄之助さんの方が立派だ、と何度もやり直させ、しまいには出るのがイヤだ、と駄々をこねだしてプロデューサーが閉口した、いかにも勘三郎さんらしい、ほほえましいエピソードもありました。 この作品は好評で、すぐ次が作られます。「名探偵雅楽再び登場・お染宙吊り殺人事件つづいて奈落殺人事件」。これは短編の「奈落殺人事件」をメインに、トリックを創ってプロットも創ったのですが、やはり「松風の記憶」のような太いストーリーが入らないと、短編だけでは骨格が弱くなるようです。これも新橋演舞場でその奈落を使って撮りましたが、劇場内の理髪店の椅子と鏡を使って右と左を取り違えるメイン・トリックがあり、これだけは演舞場になく、歌舞伎座の理髪店で撮った記憶があります。 これは勘九郎さん(五代目)が出演しました。立女形役に中村雀右衛門さんに出て貰えと勘三郎さんが言ったので、マネージャーさんが行ったら出渋って、悲劇的な母の役があるのを、この役だったら出ると言い、マネージャーさんが呆れ顔で「母だと出るんだそうです」と報告。女形のヒトだからTVドラマでも女の役をやるつもりだったらしい。いかにも歌舞伎のヒトらしい逸話ですね。あるいは拒否反応の微妙な表示だったのかも。なお、その母の役は淡島千景さんでした。 第三作『名探偵雅楽三度登場・幽霊劇場殺人事件』では、遂に新橋演舞場が取り壊され、岐阜の瑞浪(みずなみ)にある古い芝居小屋を使いました。原作が『加納座実説』という子役の幽霊が出る地方の劇場のお話です。『グリーン車の子供』という名短編も使っています。この3作で雅楽シリーズはおしまいです。劇場が使えないのではしかたがない。このシリーズは歌舞伎を知らないと書きにくい。原作の使い方、じつに難しいのです。 さて、必殺シリーズは次の新しいシリーズの始動が始まっていました。この『新・必殺仕事人』には山田五十鈴さんの三味線屋おりくの息子として、中条きよしさんが出ることになり、新メンバーが揃い踏みになります。それは次回に。 また、硫黄島で戦死したオリンピック馬術金メダリストのバロン西を描いたドラマで、当時染五郎だった松本幸四郎さんが主演したときのユーモラスなエピソードなどもあります。

September 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)VIII シナリオを書いてみよう(その2)

映画は演劇と似ています。演劇には戯曲があり、映画にもシナリオが似ているのも似ています。戯曲にもシナリオにも必要なのは、ドラマです。ドラマが無ければ映画も演劇も始まらない。では、ドラマとは何か。対立です。激しい対立が必要であり、矛盾が葛藤し、激しい対立を生み、それが解決することで観客が解放を味わい、心が浄化される。この浄化をカタルシスと名付けたのが、アリストテレスというギリシアの哲学者です。元々の意味では、カタルシスとは吐いたり下したりの生理作用なのですが、ドラマによるカタルシスは心の静寂浄化を言い、人の心に溜り、内在する苦悩や行き詰まりを解放浄化する心の作用に置き換え、それが演劇によって果たされると言いだしたのが、アリストテレスです。 現代ギリシア人も難しい行き詰まりに直面したら、「ドラマ!」と叫ぶそうです。つまり、現代でも生きている言葉なのです。 行き詰った状況。それを打開するのは、人間です。人間が行動して、状況を越えるしかない。そしてその時、人間も今までの自分を越える行動が必要です。状況がハードであればあるほど、人間の行動もハードでなくてはならない。 アリストテレスがドラマのサンプルとして挙げたのが、ソポクレスの『オイディプス王』です。テーバイの王ラーイオス、妃のイオカステーに子が生まれる。神の予言で、その子が父を殺し、母を姦すると知り、王領牧場の羊飼に捨てさせる。羊飼はその赤ん坊を憐れみ、隣のコリントスの王領牧場の羊飼に渡す。子のいなかったコリントスの王夫妻は、その子を我が子として育てる。それがオイディプース。そして、未来を占うアポロンの神託を取りに行き、父を殺し、母を姦し子を産ませると知り、出奔。旅の途中で、馬車を突っかけてきた傲慢な男と共を殺す。逃げた一人を残して、そしてテーバイへ来る。人面獣体の怪物スピンクスの災いを受けているテーバイを、スピンクスを退治して救い、旅先で死んだ王ラーイオスに代る王に選ばれ、妃イオカステーを妻とする。ところが疫病がまたテーバイを苦しめ、神託が王ラーイオス殺しが罰せられていないと告げる。良き王であろうとするオイディプースは、犯人探しを始める。 ドラマはここから始まります。そして遂に羊飼い、コリントスからオイディプースを迎えに来た使者、イオカステーの証言から、恐ろしい真実が明かされます。イオカステーは自殺し、オイディプースは真実を見抜けなかった我が眼を刺し、テーバイを出奔します。けがれた罪人として、世の見せしめとしてさすらうことを選んでいます。 神話では、オイディプースはテーバイから追放されるのですが、ドラマでは見せしめとなり、さすらうことを自分で選びます。激しく、強い性格の人間の状況と運命を超える激しいドラマになっており、それはオイディプースの勇気ある強い性格から生まれ、観客に感動を、開放感を、心の浄化をもたらしています。 これがアリストテレスの「カタルシス論」であり、観客が浄化によって開放感を得るという考え方です。悲劇やシリアスドラマだけではなく、これは喜劇にも通用する考え方です。 喜劇」として有名なアリストパネスの『リュシストラテ(女の平和)』は、「オイディプス王」の10年ほど後に作られています。アテネ連盟とスパルタ連盟の戦いに、ギリシア全土が巻き込まれる。アテネのリュシストラテという女性が、戦費を納めてあるアクロポリスに女たちを率いて立て篭もり、戦争をやめないとセックスさせない、国庫の金も使わせない、と宣言。スパルタの女たちも加わり、とうとう男たちは屈伏、平和が来るというお芝居でありながら現実に起きている戦いへの抗議、という芯が通っていて、これを書いて上演したアリストパネスに身の危険が及びかねないアクテュアリティーが重なっています。アリストパネスの勇気は大したものです。歌あり、踊りあり、セクシュアルな笑いあり、お芝居としてもスグレモノだったのです。 日本では俳優座が劇場のこけら落としに上演し、好評を博しましたが、東山千栄子のリュシストラテではお上品かつお年で、これはクリスチャン・ジャックが中篇ですが映画にしていて、監督の恋人だったマルチーヌ・キャロルが代表作『浮気なカロリーヌ』に劣らないエロティシズムを発揮しています。 さて、このように優れたドラマは良きカタルシスを生み、観客を人間的に解放するという、アリストテレスのドラマ定義はじつに優れたドラマの本質を捉えていて、映画やテレビドラマも本質としてこれを持っています。ただし、演劇とは表現が異なり、手法も異なります。演技という表現自体の芯は同じですが、表現する《質》《リアリティー》が異なり、シナリオは戯曲とは異なり、表現者であるスタッフ、キャストの《方法》も大きく異なります。それを述べていきましょう。

October 1, 2008

信天翁通信(あほうどりつうしん)IX 大船撮影所いろいろ(その3)

入所した翌年、小林正樹『人間の條件』三、四部(通称・第二部)に付いています。以後、小林さんが退社する『怪談』までずっと付くことになり、小林組になるわけです。だから、小津安二郎のあとの大きな主題は小林正樹なのですが、小林作品は準備と仕上げ、そして撮影で時間のかかるものばかりだったので、語るとなると分量が多いのです。で、その合間についた監督たちと作品について、まず語りましょう。私は助監督運がいい、というか、いい作品に恵まれました。ざっと思い出しても、川頭義郎『有楽町0番地』、中村登『いたづら』『いろはにほへと』、高橋治『彼女だけが知っている』、篠田正浩『乾いた花』、井上和男『紺碧の空遠く』、野村芳太郎『どんと行こうぜ』『拝啓天皇陛下様』、松山善三『山河あり』、木下恵介『春の夢』、斎藤耕一『約束』『旅の重さ』などに付いています。 『人間の條件』三・四部に付く前の作品から触れましょう。 川頭義郎『有楽町0番地』。これは、そのとき東京都が皇居の外堀を埋めて、高速道路を載せた有楽町フードセンターを造った、そのPRを兼ねた大都会トーキョーのエピソード集のライトコメディで、木下恵介のお弟子だった川頭さんと松山善三さんが、おなじく弟子だった勅使河原宏さんと組んで脚本を作った。松竹としては、華道界へ前売券を流す狙いもあったようです。勅使河原さんが実際に劇映画にタッチした最初であり、現場へよく顔を出して演出をサポートしたり、松竹マークの富士山をパロディ仕立てにしたいとか、挿入のテレビCM(当時珍しい試みだった!ニッカウィスキーでした)を作るとかで特撮部(タイトル撮りしかできなかった)に入り浸ったり(大庭秀雄組の予告編タイトルを撮りにきた大島渚にとうとう追い出された)その熱中ぶりに夫人の小林トシ子さん(木下組出身の女優で高峰秀子の相手役を『カルメン故郷に帰る』でやった人)が、「珍しく熱くなってるわよ」と喜ぶほどだったが、なんと、とうとう出演までしてしまった。それも、瞳麗子相手に主役の巷の詩人を。もともとは南原宏治がやることになってた。ところが『人間の條件』一・二部の秋田小坂鉱山ロケが延びに延び、南原さんが帰って来ない。いや、新劇俳優の大物や脇役の大物が帰ってこないので、映画界演劇界が恐慌を来たしてた。その結果、川頭組では、急遽勅使河原さん出演となった。当時としては驚くべき決断のようですが、松竹としては作品自体タイアップだし、これで更に華道界へ前売りが増える、と踏んでた節がある。勅使河原さん自体がノーブルなキャラだったからハマっていたし、ご本人もちょいとやりたい色気があったのかも。可笑しかったのは、当時はロケというと見物人が大群衆で、さすがにあがった勅使河原さんが川頭さんに「友情があるなら全部どけてくれ」と言い出し、われわれ助監督や製作陣が人よけに走り廻りましたっけ。 この映画は脚本の段階から、わけがわからない」という評判でした。しかし、今見たらそのごった煮ぶりが新鮮でおもしろいのではないか。純情対世俗という形のライトコメディで、諷刺も利かせていて、スラップスティックもある。クライマックスは公開形式のテレビショウ。作られた美談の嘘をヒロインが暴露し、大騒ぎになる。観客が怒りだす。そのアップを、エキストラから選んで即興で叫ばせた。おばあちゃんエキストラに司会者三國一朗へ「ヘッピリ腰!」と叫ばすシーンがあり、当然うまく行かず、助監督の私がトレーニングして本番に臨んだところ、カチンコを叩いた私が、同時にトラックナンバーをコールするのに「ヘッピリ腰!」と叫んでしまったのです。入れ込んでいたのと、徹夜続きの撮影でカーッとなっていたのですね。スタッフ、キャスト、三百人の大エキストラが大笑いになり、撮影所内でも話題になったらしく、大庭秀雄監督が私を見かけて、『大庭組』助監督だった大島渚氏に、「あの子かい?」と聞いたそうです。こう書いててもいまだにかーっと熱くなる。まあ、これは一過性の恥ですが、この場面ではチーフ助監督の斉藤正夫さん(のち監督)や、かの有名な松尾食堂の看板娘・松尾若菜さんまでアップでセリフを叫ばされ、のみならず、頭の方のフードセンターロケではスタッフが客として出さされ、私も回転焼の焼けていくのを見て生唾を呑む客をやらされ、大きく写っております。これは消えない恥ずかしさで、テレビ放映がありはしないか、ひやひや物です。 地味な作品で、私たち若いもんには食い足りませんでしたが、武満徹さんがのちに回想(『人は大切なことを忘れてしまうから=大船撮影所物語』)で、「いい映画だった」とお気に入りだったので驚きました。音楽を担当していたこれが武満さんとの最初の出会いでした。まだ世に出たばかりで、微かな憂鬱さと時折の微笑が印象的でしたね。高知ロケがけっこう大がかりで、高知駅でSLを発着させ、駅そのものに木の壁などを作り足して大オープンセットに仕立てましたっけ。可笑しかったのは、作り物のポストに本物の手紙や葉書が投函されたこと。慌てて投函し直しました。 そして、野村芳太郎『どんといこうぜ』。 これは、津川雅彦松竹入社第一回作品です。日活『狂った果実』で新鮮なデビューぶりを見せた彼を、松竹が引き抜いた。まあ、川島雄三ら監督、月丘夢路、北原三枝、三橋達也、大坂志郎ら俳優を引き抜かれた仕返しであり、津川氏にしてみれば、日活ではつまりは石原裕次郎の二番手、兄長門裕之の二番手だ、というひそかな認識があったのかも知れません。この作品は、スラップスティックをまじえたライトコメディで、脚本には大島渚も加わっています。谷川俊太郎さん作詞の主題歌も、脚本に載っていましたっけ。津川さんは、この作品とこの後の殺し屋たちのお話の二本だけ、野村監督と組んでいます。(この中の、マッサージ師を装う殺し屋二人組に、私が伊藤雄之助さんとコンビで出演が予定されていました!) この作品から野村組のカメラが川又昂に変わる、大島さんの推薦です。大島さんは監督になる、という目標に的確に進んだ人で、この1年はその実現への第一歩だったようです。ちょっと触れておきましょう。まずこの春、新人俳優紹介の短編映画『明日の太陽』を脚本・監督しています。シャレた語り口のもので、カメラ・川又昂、美術・宇野耕司ともにのちの大島組メインスタッフ。また、日活から松竹へ移るのにアメリカ留学(なんの留学か判りませんが)を経た津川雅彦の帰朝シーンが入っています。河津祐介、桑野みゆきともども、のちの大島さん作品のメインキャスト・メンバーです。 役者としてどんなものか偵察したのでしょう。そしてこの後、助監督室脚本集に書いた『月見草』が映画化されます(岩城其美男監督)。この脚本集は定期的に会社の費用で出版され、大島さんの第1作『愛と希望の街』第2作『青春残酷物語』の初稿もここに載ったものです。ここに載ると社長の城戸四郎や撮影所の人たちがみんな読み、脚本料も少しだが出た。ここから山田洋次、篠田正浩、高橋治、吉田喜重、田村孟、石堂淑朗、山田太一、広瀬襄、田向正健、三村晴彦らが輩出しています。このオリジンは大島さんや高橋さんたちが始めた『七人』という同人誌ですから、大島さんの功績は実に大きい。そして大島さんは、この年の暮れ『愛と希望の街』で遂にデビューする。ところが、カメラは川又さんではなく、木下恵介のカメラマン楠田浩之さんだった。川又さんは、『人間の條件』三、四部に撮影助手チーフとして掴まったのです。一、二部はにんじんくらぶ+歌舞伎座プロで外部作品でしたが、今回は大船作品として大船でインした。名カメラマン宮島義勇に付けて学ばせる、大船百年の計の為だ、と所長が決め、大島さんの頼みを聞いてくれなかった、とか。(大船は百年持ちませんでした) この三、四部の助監督に、私は付いた。異例の五人編成となり(通常は四人)、もうインしてたのに急遽付いた。北海道長期ロケが大変、というので。事実、大変でした。それはまた後ほど。

November 1, 2008